<小会社>パックスソフトニカのこと

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子会社として苦労した

パックスソフトニカ

この項は、
(B)-④ 
親会社『パックスエレクトロニカ』の闇
の解説
パックスエレクトロニカ(立本氏) が
子会社・パックスソフトニカ を
支配してしまう。
収益は奪われ、不正に流用され、
私と信頼関係があった田村氏が
追い落とされて、会社は変質した。

『小切手事件』を起こす要因
パックスソフトニカの成り立ち
Retasu's House れたすはうす
  パックスソフトニカ
パックスソフトニカは、パックスエレクトロニカが、イマージュソフトの開発部門と合体して設立された、子会社
橋下氏と私は、イマージュソフトにつながりがあった
社長は、私の恩人で師匠である、イマージソフトの田村氏ったが、後に、立本氏に追い落とされ、それが私の不幸となる。
  Retasu's House れたすはうす(田村氏と私)
橋下氏は、パックスソフトニカに役員として加わり、私は田村氏から、役員として参加の打診を受けたが、フリーランスとしての協力を選んだ。
パックスエレクトロニカの社長は原氏だったが、経営不振のため?の立て直し者なのか、債権者なのか…で、立本氏が実権を握った。それが、子会社のパックスソフトニカにも波及した。
(私は、非社員でも部長だったので、立本氏から直にいろいろ聞かされていたから知っているのだが)
立本氏はゲーム開発には何の興味もなく、バレーボールゲームの収益と、バレーボール移植でできた関係性を拡大して、パックスソフトニカを任天堂さんの開発部隊にして、その収益も流用することだけを考えていた。
パックスエレクトロニカじたいの経営が悪化していたため?、パックスソフトニカの収益を不当に取り上げていたことが、『小切手事件』への流れとなった。
社員旅行もあったよ。

社内風景
Retasu's House れたすはうす左から、世永氏、浦山氏、中島氏

・浦山氏は、任天堂との話を決めたフリーランス営業。
・中島氏は、『オホーツクに消ゆ』『任天堂アイスホッケー』の凄腕メインプログラマー。
・世永氏は、中島氏とコンビのアシスタントプログラマー。
Retasu's House れたすはうす
Retasu's House れたすはうす左から、私、世永氏、中島氏

・私は、”部長”として、世永さんの結婚式に出席した。

パックスソフトニカが
あった建物は、現存
【百合ヶ丘】
※準備中(11月以降の予定)
 
 
パックスソフトニカが
あった建物は、現存
【向ケ丘遊園】
※準備中(11月以降の予定)
 
 


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2025年10月10日