任天堂訪問の思い出(昔話)

<山内社長さんとの思い出>

1986年頃、京都の薄暗い任天堂社屋の1階トイレで、私が一人で壁に向かって用を足していると、誰かが入ってきて、一つ空けたところに立った。
「やあ、本谷さん。来てたんだ」
みたいに声をかけられた。
んんんん!?
山内社長さんであった。

びっくりして、出ていたものも止まった。�

その後、何を話したか全部は覚えていない。

私の原作ゲームの任天堂バレーボールへの移植が決まった時期前後に、私は宮本さんと共同ディレクターだったし、アイスホッケーもディレクター補だったので、任天堂本社に何度か行ったのである。

宿は、長岡京駅近くの従姉の嫁ぎ先だった。

姉の旦那さんは九州男児で亭主関白だったが、私は食事の時に、彼がいつも座るべき上座に、どんと座って酒を飲み談笑した。

後で、従姉が、
「あんなことした人は初めてよ。うちの旦那様の困った顔が面白くて」
と大笑いしていた。

この大好きな従姉も既に亡くなった。
任天堂に行った思い出も遠くなった。

私が任天堂バレーボールの創作者だという事実も、長い年月で消えていた。

でも、私が任天堂バレーボールの原作者で創作者だということは、単なる『事実』なので、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の出版で、これから知れ渡って行くだろうし、既にゲーム界には浸透してきている。

あっそうだ。思い出した。
山内社長さんは、こう言ってくださったような⋯。
『バレーボールは順調?』
それとも、
『今は、アイスホッケーやってるの?』
どっちだっけ?
別の日?

どちらにしても、私にとっては勲章的な思い出である。

任天堂社屋のトイレと、長岡京市の従姉の家の上座。

変なの組み合わせだけど、私の中で、一つの思い出として、息づいている。




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2025年05月07日