【1986年のバレーボールゲーム】<創作者(私)と移植担当者>

1986年のVBG<問題提起>
1986年のVBG<項目別Index>
関連YouTube配信情報
HOME

移植プログラム担当者で、

長年、創作者になりすましてきた

橋下氏の本やインタビュー記事について

私(原作者・移植版ディレクター)と
パックスソフトニカ(橋下氏)との関係が、
橋下氏自身の本やインタビューで、
どう語られているか (語られていないか)
以下で、確認していきます 。
 
ファミ通インタビュー2020年9月14日)
で、私について語られている部分

ファミ通インタビュー記事は、ここで全文読めます


この部分の『フリーランスの人』が、
私(本谷)のことです。

私がフリーランスである事実は
私の権利を考えるうえで重要ですので、
橋下氏自身が、ここだけでなく
他でも、
「本谷は出入りしていたフリーランス」
(業務協力をしていた)
ということを明確に述べておられます。

長いインタビューですが、
私に関しては、ほぼこれだけの記述で、
それも間違いを含んでいます

2019年の私のX投稿で私の存在を隠せなくなり)

「その人(※私のこと)に教えてもらって」
と、あえて私を何でもない存在のように書くのは、
私の大きな関与に、橋下氏が触れたくない
からです。

私は、前身のイマージュソフトと懇意で、
その縁で、パックソフトニカとも協力し、
数年間、橋下氏と同じオフィスに居り、
任天堂バレーボールの成功で『部長』にもなります。

(そして、ここが重要なポイントですが)
私は、社外フリーランスであり、
任天堂バレーボールは『私のゲームの移植』
ですので、パックスソフトニカとともに、
つまり橋下氏とともに開発していました。

アメリカ視察旅行も一緒に行った仲であり…、

『ファミコン版オホーツクに消ゆ』も
共に同じ部屋で開発した仲間でもあります。

『橋下氏とは長い付き合い』があるのに、
『バレーボールゲームの生みの親である私』
を語っているのは、この程度です。

この不自然さは…。

『任天堂バレーボールは自分(橋下氏)で作った』
という虚構の始まりである「小切手事件」と、
私(本谷)の存在の詳細を知られないよう
本やインタビューで私のことを話せないのです。

おそらく、橋下氏のこれまでの
トークイベントや講演などでも、彼の口から
私(本谷浩明)の話題は出ていないと思います。

ちなみに、この『ぺんぎんくんWARDS』
については、私は橋下氏と
彼が移植したゲーム画面を見ながら、
「おおっ、ファミコンはいいなあ」と、
二人で楽しく会話しています。

私が後に、バレーボールの移植を
彼に依頼することになるのは、
そのときに彼の技術を確認できたからです。

同人誌『任天堂バレーボールを作った男』
で、私について語られている部分

「バレーボールという発想が生まれたのは…」

「…本谷氏が僕の会社に持ち込んだ…」

「このソフトがあったおかげで…」

「本谷氏がアタックフォーを作っていなかったら、 僕も…」

パックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)は
フリーランスで長い付き合いの対等協力者の、
私に契約書も渡さず、お金も払っていません

お金の流用

『小切手事件』

ですから、この発言は結果として、
『小切手事件』が起こることで、
『パクりましたになります(~_~;)

私はここを読んで、暗澹たる気持ちになりました。
なぜ、平然とこういうことを書けるのか…。

移植開発は私と一緒に行っていたのだし、
私が原作者で、移植を許可依頼したのです。

その事実を明確に語らないのですから、
『私(本谷)の創作を自分(橋下氏)の創作だ』
との虚構、つまりは『パクりました』
と語ってしまうことになっています。

ファミ通さんのンタビュー記事と同じで、
この本の中でも、私(本谷)のことだけでなく、
任天堂バレーボール開発時期の
パックスソフトニカの社員、社内の様子など、
橋下氏は、ほぼ語っていません

そして重要人物の『立本氏』『田村氏』には、
触れてもいません。

橋下氏自身のことについては饒舌ですが、
私とパックスソフトニカ(橋下氏)との密接な関係、
私との共同作業、ダークな『小切手事件』などを
語っていません

語れないのです。

もちろん、私は過去から何度も言っていますが、
裏切られたとはいえ、彼とは良き仲間でしたし、
彼が、優れたプログラマーであること、
彼の技量が、素晴らしいゲームの元だと、
私が一番に、それを知っています

私が原作者で、移植ディレクターで、
彼と何年か仕事していたからです。

その点は、感謝とともに、過去一緒に仕事や
米国旅行もした友人として、強調しておきます 。

<余談>
気になるのは、技術者らしからぬ発言もしていて
「本物のバレーボールみたいに6人を動かしたら」
なにかすごいことのように書いてありますが
それは単にマシンのスペックで可能なだけであり
私が構築して、パックスソフトニカに教授した
ゲーム構造の本質からすれば些末なことです
(連載で詳述
Retasu's House れたすはうす

■橋下氏のインタビューや本で語られていない
ファミコン版移植の経緯はここを参照■

 
橋下氏は、なぜ、本やインタビューで
私のことや当時の本当の経緯を話せないか?
のポイントのまとめ
私の存在の話をきちんとしないのは、もちろん 『話せない理由(過去)』がある からです。
「不正に陥れた、本当の創作者で権利者である本谷(私)の存在は隠しておかねばならない」
のです。
パックスソフトニカ(エレクトロニカ)が、きちんと契約書を作成し、私を原作者、移植ディレクターとして正当に扱っていれば、私らの友誼は壊れず、現在まで継続しているはずですし、橋下氏が私のことをあちこちで隠す必要もなく、本やインタビューでも堂々と語れるはずなのです。
その核心は 『小切手事件』で、それが『社会的にも任天堂さんに対してもマズイこと』だとの認識があるからでしょう。
 『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の5章
宮本氏と共に『任天堂バレーボール』の移植ディレクターをした私を嵌めた後、社外部長までしていた私の存在を、任天堂さんに、どう説明したのか を、私は知りたいです 。

私は、立本氏に、
「任天堂にこのことを話したら、お前らを潰す」
と脅されたので、『任天堂バレーボール』『任天堂アイスホッケー』で親しく仕事をしていた任天堂さん(宮本さん)にも何も言えず去りました。

今でも、心残りです。
Retasu's House れたすはうす

2019年Xで、
原作ゲーム『MSXアタックフォー』初紹介
私は橋下氏に感謝コメント、書いてます。
彼の詐称をまだ当時は知らず…、
私の”おめでたさ”に、自分で失笑ですね。
Retasu's House れたすはうす
<投稿文>

これが任天堂「バレーボール」の原作ゲームであるMSXの『アタック・フォー』です。
あまり…ほとんど知られていないので、原作者である私が投稿しておきましょう。
MSX版を任天堂に持ち込んでくれたK氏とファミコン版開発のH氏と任天堂さんに感謝しています。

注:タイプミス】K氏ではなく、U 氏(浦山氏

この2019年6月2日のXでの投稿で、私は橋下氏に感謝を述べ、それ以外に否定的なことは何も書いていません

それは、38年前の『小切手事件』での裏切りで、私は開発者人生だけでなく、人としての人生も壊されたのですが、あれだけ酷いことを平然としてしまうということは、橋下氏にも何か事情があった?(私のように彼も立本氏に脅された?…など)のではと思ってきたからです。

そして、私はこのXの投稿後に、彼の反応を待っていました。

けれど、2025年に
『任天堂バレーボール』画面での、創作者の詐称表示
を知り、
私は心から失望したと同時に、橋下氏は彼の意思で立本氏と組み、私を裏切ったことをあらためて確認できました

本当に、残念です。
橋下氏の反応といえば…
2025年、橋下氏からのメールについて
橋下氏は、私の実名ドキュメンタリー同人誌 『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』 を購入読了され、私のサイト経由で、私にメールをくださっています
そのメールで、橋下氏は私の書いた本の内容に一切反論せず、私に謝罪めいたことを書いておられます。

 ⇒ 私は今のところ、そのメールを公開しませんが、場合によっては公開します。
橋下氏のメールによると、
「権利関係、お金関係のことは、全く知らない。となると…全て立本氏氏がやったこと
ということでした

そのあたりの当時の橋下氏の置かれたの状況などは、本やインタビューで彼自身が述べています。

Retasu's House れたすはうす
【私から橋下氏への切なる呼びかけ】
当時、私に無断で、パックスソフトニカ(エレクトロニカ)が何をしていたのか、お金を流用して私に払えなくなり、私を脅して排除した事実『小切手事件』への流れ)の裏側を、役員だった橋下氏は私より深く知っているはずです。

もう「何も知らない」などと言わず、あのときの橋下氏の状況や考えを、私に教えて欲しいのです
何か事情があったのではないですか?

私と一緒に、この問題(パックス・グループの闇)を社会正義として発信しましょう。

私のこの『1986年のバレーボールゲーム』『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』(同人誌・既刊・販売終了)で、長年信じられている、『任天堂バレーボール』の開発経緯の虚構は完全に崩壊します。

私も、社外部長でしたので、お金の流れの一部は、実際に立本氏に聞いて知っていますが、全容解明への協力を、心からお願いします。

私は再び、楽しく『任天堂バレーボール開発話』を橋下氏と語り、希望を再生して、残りの人生を緩やかに生きたいのです。
裏切りや恨みの記憶でなく、若くて楽しかったゲーム開発の思い出(任天堂バレーボールなどの開発、あのアメリカ旅行など)を取り戻したいと、切に願っています。


1986年のVBG<問題提起>
1986年のVBG<項目別Index>
関連YouTube配信情報
HOME

私のレトロゲーム 昔のゲーム開発エッセイ
広島弁講座 HITひろしま観光大使活動
漫画はにれた 読み物いろいろ
 

<スポンサーリンク>