遠い昔…1980年代半ば。 楽しかった青春のゲーム開発の日々。
眠気やバグと闘いながら、 ドット絵を作り、コードを書いた。 考えて悩んで試して、何度も暴走するプログラム。
ふぅ~…そうやってフリーランスとして 独自に創った念願のバレーボールゲームは 移植版が、任天堂ブランドになった。
「やったぞ!おれ!!」
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 協力会社のパックスソフトニカと 一緒に行った、ラスベガスCES グランドキャニオンで、ぬか喜び大爆発!の私
(1987年1月13日 橋下氏撮影?)
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| ■ 天国から地獄へ真っ逆さま ■ |
私は、のちにレジェンドとなる 任天堂の宮本さんと仕事をした。 もっと、もっと一緒に、 もっと面白いゲームを創るぞ! と、希望に満ち満ちていた。
ところが…
何年も協力していた懇意の会社さんが、 契約書も作らず、勝手にお金を使い込み…。
任天堂バレーボールの歴史に汚点が…。
そう…38年前に、 私、トンデモナイ目に遭ったわけでして。
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私がそのことについて沈黙し、 私が開発者人生を失うかわりに、 任天堂バレーボールは世に出ました。
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時は流れ、2025年 私はある奇遇で、再びゲーム界へ…。
”その続き”が、まだあったとは…。
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事の発端は、 1986年に、2つのバレーボールゲームが誕生! したこと。
移植版の『任天堂バレーボール』は 世界で何百万本も売れました。
そのバレーボールゲームの正しい歴史を 創作者であり、ディレクターである私が、
長く隠されてきた闇の深さに負けないよう、 明るく、覚悟を持って、お伝えします。
では、はじめましょう。
ゲーム界の健全な未来のために。
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まず、重要な問題提起から 【正しくない人名の表記】 |
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これは、正しくありません!
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【移植プログラム担当者の名前】 だけが表示されています。
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「あ~創作者に成りすましてるのか…」
コンプライアンスは、 大丈夫なのだろうか?
当事者の私は、まずそれを憂慮しました。
嘘が世界中に…。 |
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2025年に、私がこのゲーム画面を見なければ、 38年前の出来事を、私は心中に封じ込めたまま、 これまでのように平穏に生きていたけれど…。
ここで、当時の経緯をしっかりと語ることが、 その中心にいた当事者である私の責務でしょう。
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ここまでの、まとめ |
| A |
パックスソフトニカやパックスエレクトロニカ(それらを引き継いだ組織あるいは個人)が、『任天堂バレーボール』に関する権利を不正に行使してきた。 |
| B |
私が許諾し、私の原作ゲームをもとに、私の指導監修で移植をしたプログラマーが、長年、『任天堂バレーボール』の創作者に成りすましてきた。 |
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| C |
1988年の『小切手事件』を契機に、
パックス(ソフトニカ、エレクトロニカ) (あるいは、その後継組織や個人) が、
創作者やその諸権利に関する虚の説明を 、 任天堂さんにしてきたため、 ゲーム画面に正しくない人名表示がされた、
と、私は考えています。
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反論反証、ご質問、お受けし て公開します。 どしどしお送りください。
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| 私の思い |
ゲーム業界では、 『誰が権利者か?誰が創作者か? という紛争は珍しくないそうですが、
これは世界企業となった任天堂さんの ブランドで出されているゲームの話 ですので、
ゲーム史のためにも、社会正義のためにも 、 本当の経緯が広く世に知られ、 過去が正されなければなりません。
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| もう一つの疑問 |
私は、フリーランス開発者として、バレーボールをMSXでゲーム化し、任天堂バレーボールの原作者として、宮本さんと共に移植ディレクターをしました。
後のそのご縁で、『アイスホッケー』でもディレクター補を務めました。
フリーランスでしたが、バレーボールゲームで潰れかけていたパックスソフトニカを救ったことで、『部長』にもなりました。
その立場で、社員さんの結婚式に出たり、任天堂さんとも交流していました。
その私が、任天堂さんに挨拶もできず(※できなかった理由は連載で書きます)、パックスソフトニカから突然に姿を消すことは不自然なことでした。
「本谷さんは、どうしました?」 と、任天堂さんは、不審に思って質問されたはずなのです。
任天堂さんに、『私(本谷)の離脱』について、パックスソフトニカから、どういう説明がされたのか?
このことも、調べてみたいと思います。
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ここで提起される問題に関心を持っていただき、 応援をしていただけると、ありがたいです。 公開の場にも出ます。
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『任天堂バレーボール』の原作ゲーム が、こちらです。 |
私はパックスソフトニカで、 ファミコン版への移植の指導監修をしながら、 この原作ゲームの最終調整もしていました。 |
 【MSXバレーボール】
開発者 :『本谷浩明』(単独)
販売名 :『アタックフォー』
受託販売会社:『パックスソフトニカ』
開発期間: 『1984~85年』
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YouTubeは、ここから観れます
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★原作の【MSXアタックフォー】★ 復刻版発売中
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| A |
『任天堂バレーボール』の 創作者・権利者が私である ことを証明するポイント |
| ① |
原作『MSXバレーボール(アタックフォー)』 の開発の経緯について。 |
| ② |
『任天堂バレーボール』への移植の経緯 について。 |
| ③ |
①+② フリーランスの私とパックスソフトニカは対等で親密な協力関係にあったこと 。
(よくある『社内の誰が主体だったか』という話ではありません)
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この図は、全体像がわかっている
当事者でなければ、理解しにくいでしょう。
じっくり、丁寧に説明させていただきます。 |
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| B |
(親会社)パックスエレクトロニカ および パックスソフトニカ (その後継会社or個人)の不正 の説明ポイント |
| ④ |
親会社パックスエレクトロニカの不正 立本氏が、私に無断で任天堂さんと契約をし、入ってきたお金を勝手に流用(背任や横領の可能性?)。
⇒ 私も橋下氏も、おかしなお金の動きを知ってはいたのだが…。 |
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↑ これは、パックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)の社内問題にすぎませんので、フリーランスの私には、どうしようもありませんでした。強く抗議はしましたが…。
↓ ただし、次のことは、対外的なことであり、私が当時、そしてその後も沈黙してきた理由の一つです。
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| ⑤ |
『小切手事件』(原作権利者の私を排除) お金を流用したことを私に追及され、会社の危機を助けた私を裏切り脅すという行為に至った。
⇒ パックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)による、
権利に関する虚偽説明で、任天堂さんと契約した。(詐欺の可能性?) ↓ これが当時、私がパックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)の不正のことを任天堂さんに言えなかった要因の一つです。 このことで騒ぎになれば、バレーボールゲームは発売中止になるのではという危惧が、私にありました。 それは避けたかったのです。
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↓ 私のゲーム開発者人生・キャリアの崩壊 。 当時の絶望感と体調不良。 長年消えぬトラウマ。
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| ⑥ |
不正な権利行使と創作者の隠蔽と成りすましは、2025年現在も継続中。 |
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 パックスソフトニカについては、ここで説明
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その他関連 |
| ⑦ |
Wikipediaのこと(肝心な情報欠落)
⇒ 2025年、第一当事者である本谷による必要最小限の情報加筆。 |
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| D |
2025年ゲーム界一時復帰後の私のこと
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| ⑧ |
ドキュメンタリー実名同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を執筆したこと |
| ⑨ |
同人誌を読んだ橋下氏から私に来たメール のこと ⇒ 私への謝罪?と、立本氏が全てを仕切った、との示唆? |
| ⑩ |
復帰したレトロゲーム界での、私の浦島太郎的な笑える(笑えない)経験のこと
⇒ レトロゲームイベント参加
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⇒ 私は懇意の会社に裏切られたショックで、何十年もゲーム界から離れていたため、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』が、超有名なゲームになっていることを、38年目にして知り、びっくしりして舞い上がり、まったくその後の事情を知らぬまま、勘違い投稿をして、Xでの炎上を経験! (その笑えて悲しき理由とは?などは、連載に語ります)
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⇒YouTubeに出演して、当時のことを語る(未配信もあり)
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2025年11月1日
約40年ぶりに、パックスソフトニカのあった『百合ヶ丘(神奈川県川崎市)』を、オホーツク仲間の方々と訪問して、やや当時のトラウマが溶けました。
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1986年発売の ■ 2つのバレーボールゲーム情報 ■ |
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2つのバレーボールゲーム 発売日と関連会社 |
私はフリ―ランスでしたので、自宅作業もしましたが、 この2つのバレーボールゲームは私のゲームですので、 一時期は同時進行でしたが、 原作の『MSXアタックフォー』が 先に発売(開発完了)されたのち、 私は移植版のディレクターに専念できました。 |
| MSXアタックフォー |
任天堂バレーボールの直接の原作ゲーム |
| 発売日 |
1986年春 |
| 開発者 |
本谷浩明 (単独開発、フリーランス) |
| 受託発売会社 |
パックスソフトニカ |
| 権利者 |
本谷浩明 |
| 任天堂バレーボール |
本谷浩明の許諾で移植された |
| 発売日 |
1986年7月21日 |
| 移植請負開発者 |
パックスソフトニカ
(← 本谷浩明のゲーム構造指導による) |
| 移植協力会社 |
任天堂 (仕様技術指導、ゲーム演出指導) |
| 発売会社 |
任天堂
(契約形態は不明。、本谷にはパックスソフトニカから、全く説明がないまま) |
ゲーム構造考案者 原作権利者 移植ディレクター |
本谷浩明 作業を行った移植プログラムについては、パックスソフトニカにも権利があるが、それ以外には、本谷が何らかの権利をパックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)に委譲した契約書や、それに関連した契約書も一切存在しない。 |
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(私の住居の玄関)
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『1986年のバレーボールゲーム』 執筆ポイント |
私はフリーランス開発者です。 ゲーム界によくある 『誰に権利があるか?』の問いは必要なく、 権利が私にあることは、明白なのです。
 『明白』とはいえ、私には、 何があったのかを含め、 きちんと説明する責務があります。
そのため主要コンテンツが、以下の2つです。
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『1986年のバレーボールゲーム』 (このコンテンツ…連載中) (写真や図式などで、事実関係解説証明) ⇒ 当サイトに連載中、 note化も予定
『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』 (既刊) (実名ドキュメンタリー:販売終了) ⇒ 今後適当な期間の後 概要版(短縮版)を当サイト掲載&無料note化予定
※内容が短縮版であり、今すぐ note掲載(あるいはここに掲載)しないのは、最近まで、お金を出して買っていただいた方が多数おられるからです。
※世界中で売れたゲームですので、両書とも要約英語デジタル版も出せればと思っています。
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【注】
販売終了した同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』は登場人物を実名で書き、Xにも実名で投稿しています。
この『1986年のバレーボールゲーム』では、場合により、T 氏、H 氏とイニシャルにしていますが、それは冷静に記録として書くためです。
ある部分は、それを実名で書いていると、パックスソフトニカでの当時の手痛い裏切りを思い出し、私が抱えている長年のトラウマもあり、あのとき絶望の淵に追い込まれた苦渋の記憶によって、私の感情が今でもどんよりします。
そんなことでは、冷静な記録が難しくなります。
イニシャルにすることで、客観的記述ができるようにとの考えです。 |

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解説(証明)する主要ポイント |
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【創作者隠し】①② |
| ① |
フリーランスの私とパックソフトニカは、何年間も対等で良好な協力関係があったこと。
⇒ (連載部参照)
なぜ、それが長い間、隠蔽されてきたのか? ↓ H 氏が本やインタビューで、私のことや私が協力していた時期のパックスソフトニカのことを書いていない(書けない)不自然さは、なぜなのか? ↓ 長年、創作者に成りすましているので、事実は書けない。
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| ② |
私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、任天堂バレーボールの直接の移植元の原作作品であること。そして私が移植指導監修者であること。 ↓ H 氏の 「ちょっと関係してた人(私)がバレーボールゲームを持ってきただけで、自分(H氏)一人で開発した」 かのような表現は、事実隠し。 ↓ 私の存在と原作ゲームがなければ、そもそも、任天堂バレーボールは存在していない。
↓ それを否定するならば、『権利の侵害』『不正なパクリ行為』になってしまう。
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【権利者隠し】 ③ |
| ③ |
任天堂バレーボールに関する私の権利と名誉が、現在も私にあること。 ↓ パックスソフトニカ(エレクトロニカ)は、私に無断で任天堂さんと契約し、その契約書を私に見せず、私との契約書も渡さず、入ってきたお金は勝手に使い、 「契約書はないだろ?だから、本谷には権利がない。ないんだから騒いでも無駄」 「任天堂に訴えれば、お前を潰すし、この後、お前ら(私、妻、田村氏)に何があるかわからないぞ」 などと、私を脅した。 (-_-)
 お金のため、もはや、常識が通じない会社になってしまっていた…。
【2025年のターニングポイント】 『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を執筆しているとき、私はふと気づいた。
「あっ!」
↓ 「契約書などない」と、パックスソフトニカ(エレクトロニカ)に言われ、 私は騙されたことを知り、当時は諦めたのだが、『契約書がないのなら』 上記の①②が証明できれば(もちろん、できるので)、それならば逆に、
パックスソフトニカ(エレクトロニカ)は、私との契約書もなしに、勝手に不正移植をし、不正に任天堂さんと契約した
ことになる。
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【不正を止められなかった後悔】 ④ |
| ④ |
そして、皆さんが不思議に思われることの一つが、
なぜ、私は当時、身を引いたのか? なぜ、私は、38年後に、これを書いているのか?
ということ。 ↓ これに関しては、あえて『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』では触れていない。
⇒ その理由は、連載の中で説明
また、当時から、とても書きにくい問題を含んでいる部分があった。 書かずにすむならば、私も書きたくはないけれど…。 私が気を使って、その部分を書かないことが、一般の方には、この問題がわかりにくい要因となっている。 ⇒ 場合によっては『それを』書くことになるでしょう。
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■具体的に連載で説明していく 詳細ポイントは、ここを参照してください■
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【私とパックスソフトニカ】
(注) 『TAMATAMA』(ボーステックのコンテスト作品)は 私の開発者としての歩みとして入っています。
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バレーボールゲーム以前に私が パックスソフトニカで委託販売した 作品については、こちらを参照 |
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結婚記念日旅行で、できるだけ近郊の温泉宿に一泊するのだが、そういう時に、ふと話したりすることがある。 「あのときオレが、パックスソフトニカの不正を追及して権利をちゃんと持ってたら、毎年、海外旅行してたかもねぇ」 「そんなことしたら、任天堂バレーボールは、つぶれて世に出なかったんでしょ?」 「うん。あんな酷い不正を糾弾してたら、大騒ぎになってただろうなぁ」 「いいのよ。正しく生きてるから、モヤモヤはあっても、私たちに人として、心に闇はないでしょ」 「闇か…」
妻は、パックスエレクトロニカ(移籍⇒)パックスソフトニカの社員だった。 その後私たちは結婚したが、その式にパックスソフトニカの仲間は参列してくれた。
私は今も、時に思う。
『闇の中に居続け、その感覚で行動している”彼ら”は、自分たちが”闇の中”にいることがわからない。そこが自分たちの居場所であり、価値判断の基だからだ。彼らには闇が普通すぎて、意識せず平然と生きていける』
だけど、 『かつて闇に酷い目に遭った側の者は、その”闇”のことを考え続ける』 「なぜ、あんなことが…」 「あれはなんだったのか?」 と。
【”闇”は、被害者の心のほうこそを蝕む】。
だから、
【”闇堕ち”しないこと】を夫婦で、時に確認しながら生きているのである。 そう。 一番いい方法は、忘れてしまうこと すべて、”なかったこと”に?
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| 【ご協力・ご支援のお願い】 |
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ご意見、ご質問、取材、YouTube出演などは、オープンに受け付けます。 どしどし、メール、DMをください。
できる限り、お答えします。 私の知らない事実などで、私にお答えができないときは、一緒に考えましょう。 また、各方面に問い合わせて調べて、その疑問を解きたいと思います。
それらのやりとりは、基本的に『公開(このHP、X、note 等)』いたします。 問い合わせされる方の側で公開不可希望の場合は、その旨を書き添えて、ご連絡ください。
ゲーム史における『バレーボールゲーム』の位置づけや、世界的に大ヒットした『任天堂バレーボール』の歴史を正しく知り、健全で明るいゲーム界となるための活動に関心をお寄せください。
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(注)
このサイトにの内容は、最終稿になるまで、その都度、『わかりやすさ追及のため』に書き直しますが、基本内容は変わりません。
基本内容は、既刊の『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』で述べられているものです。
ただし、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』では、書けなかったこともありますので、そのあたりは、この『1986年のバレーボールゲーム』で、情報を追加します。
最終稿は、note あるいは、デジタルブックなどにできればと考えています。
(注)
登場する社名の株式会社や有限会社の表記は略しています。
また、パックスソフトニカとパックスエレクトロニカが経営体として一体化している部分が多く、区別して語る意味がない場合もあります。
大雑把には、パックスエレクトロニカが親会社として契約や資金を握り、パックスソフトニカは『開発部隊』ということになるでしょう。 |