北海道の牧場・子牛の出産 [5]

北海道の牧場・子牛の出産(5)

いくらロープで引っ張ってみても、仔牛が出てこないので、途中からは引っ張るだけでなく、ピンと張っているロープにみんなで身体を乗せて揺さぶったりもした。
ともかく、やっていることが、むちゃくちゃになっている。

これは子牛の出産(分娩)のはずだが…。

我々は必死であった。
仔牛を出さなければ、2つの命が失われるのである。

格闘すること15分。
やっと、まず子牛の前足と細長い鼻と口が見えてきた。まだ子牛の目の部分は見えない。
発育しすぎた頭部が大きくて、そこでつっかえているのだ。
どうしても、そこからはまったく抜ける気がしない。どうにもこうにもならない。

体外に出てきている子牛の口からはダラリと力なく、長い舌が垂れていた。
あぶくのような唾液も滴っている。

「もう子牛は窒息死してるのではないか」
と私は不安になった。
見えている子牛の前足や口や鼻の部分は、全く動いていないのだ。

獣医さんはロープから手を放し、出てきた子牛のその前足を掴んで引いていた。
そんなにに引っ張って子牛の前足は大丈夫なんだろうかと、私は心配した。

「このままだと子牛は死にます。時間がありません。ともかくどうやってでも出すんです!」
という獣医さんの言葉で、我々はついに鬼の形相となった。

「自分たちは子牛を引っ張り出しているんだ」
というナイーブな思考を停止し、土木建築作業のごとく、とにもかくにも力の限りで死に物狂いに引っ張った。

とロープを20分以上全力で引っ張っていたので、私の腕の筋肉もしびれて力が入らなくなっていた。
それでも少しずつ少しずつ子牛の大きな頭部が現れてきて、閉じている子牛の眼のあたりも見えてきた。もう少しでもっとも大きな頭部(額の部分)が抜けそうだった。

母牛は、あまりの苦しさからなのだろう、大きな啼き声(泣き声でもあったろう)を上げ続けていた。
私は、母牛を見ないようにした。見たら、引っ張れない。

「もう少しだ!」
と誰かが叫んだ瞬間、頭部がスルリと抜けて、ズボズボッと子牛の体が母牛の体内から出て牛舎の床に大きな音を立てて落下した。

獣医さんは、その子牛の頭部を守るようにして抱きかかえ、一緒に床に倒れた。

それと 同時に、母牛の大きな体がゆらりと傾き、左側に信じられないくらいの衝撃音を立てて倒れた。
母牛は、口から泡を吹いて身体はピクピクと痙攣し、目を大きく剥いてまま失神していた。
目を開けて失神しているようすは、怪奇現象のようだった。

そのとき私は、
「ああ、子牛も母牛も死んだ」
と思った。
見ている情景は、まさにそうなのである。

獣医さんは、まったく動かない子牛にマッサージを始めていた。
私は何をしていいかもわからないし、心身とも疲労困憊だし、その場の異様な光景に普通の感情はぶっとんでしまい、棒のように突っ立っていた。
私も混乱してしまい。ほぼ心神喪失状態である。

その私の精神に更なる追い打ちが…。

なんとご主人が、倒れて泡を吹いている母牛の背中に猛烈なキックを浴びせ始めたのである。

「ええっ!!、なんてことを!ご主人、おかしくなっちゃった!?」

それは凶悪レスラーのような容赦のない本気の蹴り(ストンピング)なのである。
人間の腹部をそういうふうに蹴れば、間違いなく内臓破裂するだろうというような蹴りである。

私は異様な光景に更に異常な光景が見てしまい、もはや痴呆状態の呆然自失となった。
数秒間、私の意識は宇宙の果てに飛んでいったと思う。
が、すぐ我に返った。

「この人(ご主人)はいったい何をしているんだ。今、生死をかけて出産をしたばかりの母牛の身体を渾身の力で蹴り上げているとは!気でも狂ったのか!!こんなこと止めなければ!」
そう思った。

そうは思ったが、声も出ないし身体も動かない。
そんな私に向かって、ご主人が怒鳴った。

「お前も早く蹴れ!蹴れないなら、そこの箒でこいつを叩け。早くしろ!」
日頃はすごく温和なご主人が、すごい顔でわめいている。
それも、
「蹴れ!叩け!」
と。

え~!!これって、なんなのぉ~!?
私はその言葉の意味が理解できず、そのまま突っ立っていた。

「見てみろ、泡を吹いているだろ。このままだとショック死することがあるんだ。これは『気付(きつけ)』だ。母牛が死んでもいいのか、とにかく正気に戻してやるんだ!蹴れ~、蹴れ!!」
「あぁ、はい!わかりましたぁ!」

そういうことなのか。そういうことなのか。
いや、どういうことなのだ?
いや、そういうことなんだ!

そういうこと(母牛の命を救うため)なら、殴る蹴るでも何でもしなければ!

前にも書いたように、600kgもある巨体の牛にとって、人間の力で蹴られたくらいではなんてことはない…らしい。
(もちろん本気の蹴りは痛いだろうし、つま先なんかで蹴ったらダメだけど…)

『気付(きつけ)効果』のためには、たしかにそれ相当の『刺激』が必要なので、ご主人のやっているように思い切り力を入れて蹴るのである。

しかし見た目は、悪質な動物虐待。
イギリス人が見たら、激怒。

泡を吹いて気絶している母牛を、私はどうしても蹴ることはできず、箒でその身体をバシバシと遠慮がちに叩いた。
叩きながら、なんでか知らないが涙が出てきた。
そのときの私は(たぶん)半狂乱であったろう。

いったいこれはなんなんだ!

すると母牛は突然、意識を取り戻した。
そして、ブルルと体を震わせたかと思うと、すくっと立ち上がった。
巨体が急に立ち上がったので、ご主人も私もびっくりして、数歩飛び退いた。

母牛は
「べぇ~!」
と大きく一声啼くと、今産んで、すぐそばで蘇生が試みられている自分の子牛には目もくれず、タッタッタと走って牛舎の戸口に向かった。

私は、あっけにとられて、呆然として、それを見ていた。

母牛は何かが心に引っかかったように、一度戸口の前で立ち止まった。
外は薄暗くなっていて、いつの間にか数メートル先も見えないような濃霧が立ち込めていた。

牛舎を出た母牛は、その濃霧の中に、すぅ~と消えていった。

一切、振り向きもせずに…。

(つづく)

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2018年07月09日