つくし(土筆)[1]

ツクシ(土筆)[1]




私の子供のころ、春になると日を決めて、家族でツクシを採取しに行った。
私たち家族だけでなく、多くの人々が家族連れ、あるいは一人で、ツクシ採取に出かけるのであった。
そして、我先にとツクシを摘んでは、袋に詰め込むのだ。

それが、私の故郷の一種の年中行事なのであった。

なぜ、そうまでして必死にツクシを採るのか?
もちろん、食べるためである。
さほど美味しくはないが、しょうゆ、みりん、砂糖で煮るように炒めて食べるんである。

私は広島県東部の瀬戸内海に面した、河口の町で育った。
春になると、川の土手のスギナの生えている広範なエリアに、ツクシがニョキニョキと姿を現す。

幼少時には、ツクシがいくらでも採れるという感じだったが、乱獲?や土手の雑草刈り(除草剤散布も?)や、土手にコンクリート壁が増えたりした環境変化が原因だろうと思うが、年々ツクシの姿が少なくなっていった。

小学校高学年頃になると、ツクシの数は激減し、恒例行事化していたツクシ採取に出かける人の数もまばらになった。
そして、私も中学生になると、ツクシそのものに興味がなくなってしまった。

とはいえ、幼いころ毎年春に体験した風習であったから、その記憶はずっと残っている。
少し誇張した表現になるとは思うけれど、私にとって、

春 → 桜
ではなく、
春 → ツクシ(土筆)
なんである。

なにしろ、花見などしたことがなかったが、毎年ツクシ狩りには必ず出かけていたのだ。

人間は雑食だから、飢餓でなくとも、毒がなければ何でも食べる。
植物だと草や木の芽、葉っぱ、茎、根、花なども食べる。
季節の期間限定のものは、ありがたがって食べる。

ツクシも、それである。
タラの芽とか、フキノトウとかと、(たぶん)同じである。

私は、『タラの芽』は、結婚してのち、春に福島の妻の実家で天ぷらを食卓に出されて、初めて知った。

最初に実物無しで、言葉だけで、
「タラのメの、テンプラを食べるかい?」
と義兄に訊かれたとき、
「山間部なのに、鱈の眼を食べるのか」
と、不思議に思ったものだ。

妻の実家周りは山の幸が豊富で、キノコ類、タケノコ、山菜など多種多様なものが採れ、食膳に上る。
が、ツクシは食べない。見向きもされない。
食べ物のカテゴリーにないのである。

(このお題、つづく))

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2019年06月28日