|  なぜ食べないのか?
 食文化が違う。
 ツクシはそれほど美味しくない。
 同季節に他の山菜類が豊富にある。
 
 という理由からだとわかってはいるが、幼少時の春にツクシ採りに狂奔した体験を持つ私には、妻の実家(その周辺地域)の人々のツクシに対する無関心、愛の無さが、どうにも解せなかった。
 
 ただ、それは私にとって、好都合でもあった。
 
 そう、誰もツクシに関心がないのだから、春のその季節には、妻の実家あたりはツクシだらけになるのに、誰も採取しないので手付かずのままなのだ。
 
 そう。
 採り放題!
 
 妻の実家には、お盆と正月だけ帰省していたので、そもそもツクシのことは気にもしていなかったのだが、ある年に初めてGWに帰省して、妻の実家前に車を止めて降りたとき、私は思わず、
 「おおおおぉ~!」
 と、奇声を発していた。
 
 あたり一面に、ツクシが…気持ち悪いくらいの数が…生えているのであった。
 妻の実家の牛小屋の周りにも、その下の斜面にも、家の前の道路のへりにも、大げさでなく、
 【見渡すかぎりのツクシの王国】
 だったのであった。
 
 私は実家の玄関で帰省の挨拶をすませると、すぐ大きなレジ袋をさげて、ツクシ採りに熱狂した。
 子供時代と違い、ツクシ採取の競争相手はいないし、ツクシの数は…もはや無限なのでは?と思うほどある。
 
 もう一度言おう。
 採り放題!
 
 これは夢なのか!?
 そんな気持であった。
 
 妻は、気の狂ったような私の『ツクシ愛』を冷ややかな目で見ており、採取を手伝おうともしなかった。
 まあ、それはいいけど。
 ひとりで採っても、ものすごい量が採れるので。
 
 わはははははははははは。
 楽しいぞ!
 
 ツクシ狩りが数十年ぶりだったので、私は重要なことを忘れていた。
 ツクシでもなんでも、そういう植物系のものは、大きく育つと繊維が硬くなりマズくなるのである。
 季節はツクシにとっては晩期であった。だいたいが大きく育ち切り、また見た目ではわかりにくいが、もう枯れる時期に近づいていたのである。
 
 だが、幼少期の精神状態に戻っていた私は、そういう判断能力を欠き、必死でできるだけ巨大なツクシを次々と袋に突っ込んでいった。
 
 ものの10分で、とても食べきれないほどのツクシが採れた。
 「そんなものを食べるの?」
 と、バカにしている妻(や、何も言わないがそう思っているに違いない実家の人々)にも食べてもらって、来年からの食生活習慣に加えさせるのだ、と私は考えていた。
 
 私はウキウキしながら、採取したツクシの袴をとり、綺麗に洗って、佃煮風に調理した。
 そして、20数年ぶりに、調理したツクシをこれでもかというほど大量に箸でつかんで、口に入れた。
 
 モグモグモグ…。
 おお、懐かしい、この食感!
 
 んんん!!!!
 ん?
 
 大きく育ちすぎたツクシは、口に中で、まぎれもなく藁(わら)そのものであった。
 
 私の口の中は、甘辛い味がする藁(わら)状のツクシで、モゴモゴになった。
 それはまるで、ここ、妻の実家で飼っている牛のエサである。
 私は、その懐かしい記憶の染みたツクシ(ほぼ藁)を飲み込むことができなかった。
 
 私は口の中のツクシを見つからないように吐きだし、何事もなかったかのように、こっそり部屋を抜け出し、ツクシ(ほぼ藁)を全部、裏の竹林に廃棄した。
 
 その後、私にとって、ツクシのことは、大いなるタブーである。
 
 (このお題、完)
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