序 |
ドキュメンタリー記録は、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を参照ください。
この『1986年のバレーボールゲーム』は、このドキュメンタリーの解説、内容証明、追記です。
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<概要>
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さて、 1986年に、2つのバレーボールゲームが発売されました。
(1)MSXバレーボール【販売名:アタックフォー) (2) 任天堂バレーボール
どちらも、 私の作品 です。 私の作品という意味は、次の通りです。
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① |
MSXバレーボールゲーム(販売名アタックフォー) ・フリーランスである私が、自宅で一人で全てを開発した。 ・このゲームで、私がバレーボールのゲーム化を完成させた。
・パックスソフトニカ(PS)で商品化され発売された。(1986年春)
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② |
任天堂バレーボール ・私の『MSXアタックフォー(バレーボールゲーム)』の移植ゲーム。 ・原作者の私が、PSに移植許可を出し、移植ディレクターをした。 ・私は、パックスエレクトロニカ(以下PE)と直に関係がなかったのだが、PEが私に相談なく勝手に任天堂さんと契約した(と思われる)
・PSの移植担当者H氏は、バレーボールに対する知識も興味も全くがなかった。 ・H氏は、私が持ち込んだ『MSXバレーボール』にも、まったく関心がなかった。 ・H氏は、私の許可と、 私とPSの方針で移植担当になり、ゲーム性とゲーム構造を私に教わり、私のMSXバレーボールゲームを真似て移植した。
・任天堂ブランドになったあとも、バレーボールやバレーボールのゲーム構造のことは私の考案なので、私が監修指導した。 ・ファミコン移植版の演出などは、宮本氏を中心に話し合って追加。その下で、PSが移植作業を請け負った。
・任天堂のディスクシステムとして発売された。(1986年7月21日)
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【権利問題】 よくある『誰に権利があるか?』という問題とはまったく異なり、『任天堂バレーボール』の場合は、私が明らかに創作者であり権利者です。 論争の余地はありません。
PSが、私の権利をすべて無視してきたことは、不正行為だということです。 そのことは、ここできちんと証明していきます。
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【創作権利者・移植指導監修者である私の隠蔽】 『任天堂バレーボール』については、この40年間、私の作品であることが知られていませんでした 。
なぜ、そのような不可解なことになっていたのか? なぜ、このことについて、2025年になって、やっと私自身が口を開いたのか?
それを説明解説していく目的で、この『1986年のバレーボールゲーム』を書いていきます。 そしてこれは、『今後の活動ための基本的な記録資料』にもなります。
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【ご意見、ご質問、情報提供のお願い】 この『1986年のバレーボールゲーム』について、ご意見や疑問がある方は、ぜひメール あるいは、XなどのDMをください。 事実関係についての具体的なご意見、ご質問には、私のできる限りのお答えをしますし、その内容は公開します。。
取材やYouTube出演など、お受けします。
共に情報を出し合い、お互いに事実確認をし、バレーボールゲーム史を正確にしていきましょう。
皆さま、よろしくお願いします。
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<記録項目> |
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以下について、説明していきます。 |
1 |
・私は、少年時代に、バレーボールに熱中。ミュンヘンオリンピックで大興奮。 |
2 |
・私は、PC-6001を買い、独学でフリーランスのゲーム開発者になる。 ・私は、作ったゲームをPSに持ち込み、販売委託をお願いする。 ・バレーボールゲーム開発を目標にするようになる。 |
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1983年~88年まで、約5年間、完全フリーランスとして、 PS とともに活動。 私は社員になったことは、まったくない。ずっと独立事業者。 |
3 |
・1985年、MSXで世界初の本格的バレーボールゲームを一人で創作。 ・それまで通り、これも、PSで商品化し、販売委託。 |
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※全てのゲームの権利は、私にある契約である。 |
4 |
・倒産寸前のPSを救うため、バレーボールゲームのファミコン移植を、私が許可する。 (もし、PSが私に無断で移植したとしたら、それはパックスソフトニカの不正行為)
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5 |
・バレーボールのゲーム化(構造化)は、私によるものであり、それを私がPSに教授した(総合ディレクター) ・PSの移植担当者は、バレーボールというスポーツに興味がなく、バレーボールゲーム構造にも知識がなかったので、私が教えた。 |
※ |
・移植プログラム以外の権利は、私が保持 。 ・私が、PSやPEに権利を委譲した契約書はない。
・PSやPEの代表者が、任天堂バレーボールの開発~発売時に、私の知らぬ間に、T氏に交代しており、T氏が、それまでの私とPSの関係を全く無視し、支配を始める。 ・私の認識では、それまで私と何年友好信頼関係にあった、PS社長のT.Y.氏が、なんらかの陥穽で排除されてしまったことが、私の40年にわたる不幸の元となった。
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※ |
任天堂バレーボール移植経緯を知らず、後から乗り込んできたT氏が、 「契約書がないだろう」という無茶苦茶な理由で、PSは、私の権利も名誉も無視し現在に至るのだが、それが実は、 『契約書がないなら』 『彼ら(PS、PE)に権利がない』 あるいは、 『私がPSに持ち込んだMSXバレーボールゲームをPSが勝手に移植した』 ことになり、 ⇒ 私に対する不正行為』の証明 になるのである。
このことは、同人誌『バレーボールをめぐる本当の物語』を書いているときに、私はやっと気づいた。
そのため、権利証明の活動を開始した。(2025年)。
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6 |
・移植開発中のファミコン移植版バレーボールゲームが、U氏の営業で、任天堂ブランド開発となった。 ・そのため、私は宮本氏と共同ディレクターをし、PSへの指導監修を継続した。 |
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任天堂バレーボール発売から、しばらくは、とPSの関係が続いていた。 が、任天堂バレーボールに関する契約書ももらえず、お金ももらえず、PSに協力させられていた。 |
7 |
・ファミコン版オホーツクに消ゆ(デジタイズ)を担当する。<当時の写真あり> |
8 |
・親会社PEの関係者のT氏が、ソフトニカを支配するようになる。 ・T氏がPSのお金を管理し初め、ここから物事が歪み始める。 |
9 |
・『任天堂バレーボ―ル』開発で、PS の倒産の危機を救った功績と任天堂さんと私の関係を考慮し、PSは私を社外フリーランスのまま、部長とした。 ・部長として、同僚の結婚式にも会社を代表して参加。<写真あり>
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10 |
・T氏は、PSあるいはPEに入ってきたお金を勝手に使う。 ・「あなたが使っているお金と権利は、もともと私のものですよ」と言っても、「まあ悪いようにしないから」と、無視された。 |
11 |
・ラスベガスのゲーム展示会視察旅行。<写真あり>
※『1987 Consumer Electronics Show 』
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12 |
・『任天堂アイスホッケー』(サブディレクター)に参加。 |
13 |
・PS(PE)、つまりT氏が、『任天堂バレーボール』の契約を私に無断で任天堂さんと結んだらしいことに、私も遅ればせながら気づく。 ・そして、その売上金を勝手に流用していたらしいことは、H氏も愚痴っていた。 (T氏…PEが勝手にお金を使っていた件は、その後H 氏も本かインタビューに書いている) |
14 |
・ PS は、原作者でディレクターである私にお金が払えず、フリーランスの私を社内に取り込み、うやむやにしようとするが、私の拒否にあい、私に権利関係の契約書を渡さず、騙すことにした。。 |
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【小切手事件(概要)】 T氏は、 「おまえとの契約書などない!」 と開き直り、 H氏は、 「任天堂バレーボールゲームは、私が一人で作った」 と言いだす。
そして、私の目の前には…。
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16 |
・T氏は、創作者・ディレクターとしての私の権利と名誉を奪い、この件での口外をせぬよう、私を脅した。 |
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・私は任天堂さんに訴えたかったが、脅されていたことと、私が騒ぐと、『ファミコン版バレーボール』そのものがつぶれることを恐れ、沈黙する。 |
18 |
・PSを離れ、再出発する。 ・PSの仲間達が集った結婚式が、最後の良い思い出。 <写真あり> |
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【開発者人生の黒いトラウマ】 『小切手事件』による裏切りで、私は人生に絶望し、悔しく、一時は毎日吐いてました。 ゲーム界にも失望した。 そのため、PS時代のゲーム資料もゲーム製品も、それが目に入ると気持ちが悪くなるので、全て捨てました。
それらをやっとじっくり見ることができたのは、38年後の今年(2025年)なのです。
『ファミコン版オホーツクに消ゆ』も、38年前にデジタイズしてから何の情報も得ることがなく、今年(2025)初めて製品版の絵を見ました。 『オホーツクに消ゆ』が有名なゲームになっていることも、やっと知りました。 それで、ちょっと浮かれて、Xに勘違い投稿をして、炎上も経験しましたが、その遠因もPSによる裏切りのトラウマだとも言えます。
私は、この40年近くの間、自分が作った『MSXアタックフォー』も『任天堂バレーボール』も、製品を持っていないし、遊んだこともないのです。
それは、『小切手事件』を思い出して、気持ちが悪くなるから でした。
ネットまどで、ゲーム情報を見ることも、最近までほとんどありませんでした。
妻もPS社員で不当解雇されましたから、我が家では、バレーボールとゲームの話題は禁句でした。 私が『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を書き、イベントで本当の話すること画できるようになった2025年に、やっとその呪縛が解けてきました。
それにしても、私が作ったバレーボールゲームなのに…。 いったい…。 こんな人生が、あるのでしょうか?
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19 |
・その後、約40年間、PSは不都合な私の存在を隠し続ける。 ・後ろめたいのだろうと思うし、つじつまが合わなくなるので触れられない。。
・Wikipadiaなどにも記載なし。 (※2025年、私自身が記載追加) |
20 |
・約38年後、私はゲーム界に一時復帰し、PSの不正が継続していることを知る。 ・ 同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』 を書く。 |
21 |
・移植担当のH 氏の『ファミ通インタビュー』、同人誌『任天堂バレーボ―ルを作った男』では、【原作権利者、移植許可指導者、ディレクターの私】が、ほとんど無視されていることを知り、あまりのことに呆れる。
・また、私のことだけでなく、私とPSが協力関係にあった時期のPSことを、H氏が、インタビューでも本でも、ほとんど語っていないのは、その時期にPSであった不正を語れないからだろう。
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・私がもっとも衝撃を受けたのは、 『任天堂バレーボ―ル』のTOP画面に、移植担当のH氏の名前だけがある』 であった。
・まったく異様である。 「なんだ、これ!!」
・PSは任天堂さんに、どういう説明をしているのか?
・この事実で私は闘うことを決めた。 私にとって、これの解明が生涯の活動目的となる。
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23 |
・移植担当者のH氏が、私の本『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読み、私にメールを送ってきて、 「すみませんでした。今後は本谷さんのことを、ちゃんと話します」
と書いていた。
・そして、唐突に、 「権利のことや、お金のことは、私は何も知りません」 とも、わざわざ書いてあった。
それを自ら書くということは、『その部分の不正を彼らも認識(意識)している』のだろう。
・パックスソフトニカの役員であり、その後、『ソフトニカ』年て後継していながら『知らない』など信じがたいが、そうだとすれば「不正行為は、すべてT氏によるもの」ということなのだろうか?
・このあたり、私、真実を知りたい。
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私が、『パックスソフトニカの不正』と闘えるのではないかと気づいたのは、同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を書いていたからでです。
① 任天堂バレーボール関連のお金をPS(PE)が流用したこと ② 契約書がないこと
この2点について、「あっ、そうか!」と。
これは、連載の中で、きちんと書きます。
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私が去った後のPSについて、元社員の人たち、PS解散後の仕事のことを直に知っている人たちからの、情報提供などがきている。 私はそれらも参考しているが、自分が直に見聞したこと以外は、ここでは触れない。 |
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今後、上記の内容を、図、写真などをまじえて、個別に説明していきますので、よろしくお願いします。
また、このサイトでの記載内容については、よりわかりやすい内容にするため、予告なくその都度修正や文章表現の推敲をします。 これは『記録』だからです。
この記録をもとに、【活動】をします。
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お願い |
ここにこれから書かれる『1986年のバレーボール』、そしてすでに販売終了となった『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の内容については、何十年も前のことであり、細部では私の記憶違いがあるかもしれません。 そのときは、どなたでも、どうかご指摘ください。
事実関係だけでなく、私の表現方法などに御不快な点があれば、それもご指摘ください。 その点は、きちんとご説明し、私に非があれば速やかに修正いたします。
また時に、過去の理不尽な経験から、私の文章表現が尖ることがあるかもしれません。 その点についても同様に対応いたします。
私はそれらのご指摘を公開しますし、一緒に正解を探したいと考えています。
取材、YouTube動画への出演など、お受けします。 メール、DMなどで、ご連絡ください。
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note |
このWEBサイトで記述がまとまり、推敲も一通りできたものは、note に投稿します。 もちろん、無料公開です。
販売終了となりました『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の note への無料公開(一部内容を追加削除する場合あり)については、同人誌を購入された方への感謝と情報優位性を守るため、全面公開はもう少し先にいたします。ご了承ください。 |