対談<003-4>イエスは神を信じれない?<テッド・ニーリーの絶唱> その4
ゲスト | グノーシス・佐藤・シンチャイ |
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略歴 | イタリア系オランダ系日本人。北海道厚岸で生まれ、仏教タイで育ったブッディスト。米国留学中に、ブロードウエイで、ロックオペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観たことからキリスト教と仏教の二股信仰となる。1966年からタイの大学で教鞭をとる。1970年にタイ人の妻との結婚を機に、妻の「雪が降る所に住みたい」という希望で日本に帰国。現在、日本仏法キリスト大学学長。著書多数。74歳。 |
イエスは神を信じれない?<テッド・ニーリーの絶唱> その4
れ=れたす、G=ゲスト | |
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れ | ところで、今日の本題に入りたいんですが…。 私は子供のころからどうにもわからないところがありまして…。 もちろんキリスト教についての深い知識もなく勉強もしているわけではないので、当然のこととして色々なことがわからないのですが、今日、お尋ねしたいのは、 『なぜ、イエスは自分が磔(ハリツケ)にされることについて、神に恨みを言うのか?』 ということなんです。 |
G | ははぁ。【JCS】での、あのテッド・ニーリーの、あの絶唱ですね? 『ゲッセマネ』の。 |
れ | そうです。 「おお、神よ。主よ。父よ。なぜ私は死なねばならないのですか?」 と、かきくどきます。そのうち、 「ああもう、わかりました。死ねばいいんでしょ、死ねば!もう私を殺してください。さあやれ! そこまで言うなら、私は捕まって殺されてやりますよ!」 と、当たり散らす?みたいな感じになってます。 |
G | うんうん。 |
れ | 喚き散らしているうちに、最後にはそういう気持ちも沈静して、神の意志を受け入れ納得します。 「目の前の毒杯でもなんでも飲みます!」 って、観念しちゃう。 |
G | あの喚き散らし方は、もう、ただの人間のできていない人間ですね。 |
れ | イエスは、自分の最後の運命をそのときまで知らなかったから、あれほど嘆くのか? 前々から、教えられていて知っていたけど、その時が近づくと、 「う~ん、やっぱ、ヤダ」 となって、死ぬのが嫌で、指定された運命を受け入れられないから嘆くのか? |
G | 捕縛されてから、パリサイ人の前でも、ヘロデ王の前でも、ピトラ総督の前でも毅然としてるのに、磔にされたときに、 「え、神様、私を見捨てちゃったんですか?このまま磔のままだと、ほんとに私は死んじゃいますよ?」 って感じで、つぶやきますね。 |
れ | 殺される前に、神が自分を助けてくれると思ってたんですね。でも、それは神の計画とは違う。イエスが死なないと、その後の展開ができない。 |
G | そうです。ともかく、イエスには一回ちゃんと死んでもらわないといけない。 死ぬ前に助けてしまうと、【復活】ということができないですからね。 |
れ | ああ、そうか。 【復活】するためには、とにもかくにもイエスは、死なねばならない。 |
(つづく) |
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