広島名産の生牡蛎(カキ) (牡蛎を魚のエサだと思っている私…)
広島名産の生牡蛎(カキ) |
私は広島県の出身だが、不憫にも牡蠣が広島の名物であることを東京に出てきて後、人から聞かされるまでまったく知らなかった。 私が子どもの頃、もちろん牡蠣はよく食べた。たいがいは牡蠣フライであった。 生産地に近いのだから新鮮なものはいくらでもあったが、生で食べた記憶はない。母が生牡蠣を好かなかったせいかもしれない。 もちろん、牡蠣を生で食べる人がいることは、海で遊んでいたときの経験で知っていた。 私は河口の汽水域のあたりで育ったから、いつもすぐそこの海で遊んでいた。 海には野生の牡蠣がいくらでも棲息していた。そこらじゅうのテトラや岸壁にびっしりついているのである。 どこかの大人が先の曲がった金具を用いて牡蠣の殻を開け、その金具の先で身を擦り取って、そのまま口に放り込んで生で食べるところをよく見た。 「変な人だ。近寄らないでおこう」 と、私は思っていた。 私たち子どもは石で牡蠣殻を割り、中身を取り出して釣りのエサにすることがあった。 牡蛎の身はグニャグニャしていて針から外れやすいので、投げ釣りのエサとしてはダメだった。 我々子どもは海では浮釣りではなく、主に投げ釣りをしていたからゴカイなどのほうが魚釣りのエサとして上等だという感覚だった。 そういう意味でも、私にとって牡蛎は外道なのであった。 海の中にはハゼがたくさんいたが、牡蠣の剥き身を投げ与えると、パクッとすぐに食らいついて飲み込んだ。 それを見て私は、 「牡蠣はどうやら、魚にはよほど美味いものらしい」 ということを学んだ。 そう、『魚にとって』である。 我々の子ども時代は牡蠣を食べ物としてより【魚の好物】として見ていた。 私は家がお好み焼き店(定食や麺類やおでんなどもあった)であったため、自由食べれるものも多く、海でいくらでも採れる牡蠣を食べようという動機がなかった。 大人になり、 東京で暮らすようになってから、広島の伯父から高級な瀬戸物の壺に入った生食用の生牡蠣がクール便で送られてきたことがある。 私はその包装を解き、表面に光沢のある重量感あふれる焼き物の壺に驚いた。 「(魚のエサなのに…)牡蠣は、このような入れ物に入れるとは。牡蛎はこのように貴重そうに扱われるものだったのか…」 もちろん、私が子どもの頃に海に棲息していた野生の牡蠣と、プロが手をかけて丁寧に養殖された牡蠣は全く別物であろうが、私にとっては牡蠣の尊貴さを実感として知ったときだったのだ。 しかしながら、私はその生食用の高級生牡蠣を全てフライにして食べた。 子どもの頃から、牡蛎を生で食べたことがなかったからである。 今でも、テレビで生牡蠣を食べているシーンを見ると、不審である。 私は、牡蠣に関してはまこと不憫な人間であろう。生牡蠣のおいしさを知らないのだから。 別に知りたくないのだが…。 後に帰省したとき伯父が私に、 「あの牡蠣はうまかったじゃろ?」 と訊いた。 まさか高級生食用生牡蠣をフライにしたとも言えず、私は、 「おいしかった。最高級品の味だよねぇ」 と誤魔化した。 こういう嘘をつかざるを得なかった私は、ますます色々と不憫者である。 伯父さん、そして広島のおいしい高級牡蠣さん、ごめんなさい。 (このお題、完) |
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