『香港亭』の餃子 [1] (伯父さんの中華料理店の餃子のこと)
『香港亭』の餃子 |
その昔(1970~1990年くらい)、広島県の瀬戸内の小都市の駅前に、『香港亭』という小ぶりな中華料理店があった。私の伯父さんと伯母さんの店である。 私はいまだに、その『香港亭』の餃子が、一番好きで一番おいしいと思っている。 (親戚の贔屓だけではなく) 伯父さんの店の餃子以外の料理は、普通であった。(伯父さん、ごめん) そのことは伯父さんにも自覚があったようだし、他の多くの常連さんも了解していることで、まるで餃子専門店のように餃子ばかり注文されていた。 要は、餃子がうますぎて、ほかの料理はおざなりにされしまった、というところだろうか。 ともかく、餃子が最高だった。 だから、私は香港亭に行くと餃子だけ食べていた。 若いころは、50個から100個は食べた。 黙っていても、店に入って座っていると、私の目の前にそれくらいの数が焼かれて出てくるのだ。 母のやっていたお好み焼き店は、私が中学生の頃には閉めてしまったので、私はしょっちゅう駅前の伯父さんの店に行って、餃子を食べた。 (それ以外のものも、もちろん食べた。育ち盛りだったし、いくら食べても無料だったし) 私の血肉は、母の店のお好み焼きと伯父の店の餃子でできているのである。 私は大学で東京に出てしまってからは、故郷には時々帰省するだけになった。 それでも帰省のたび、ほぼ必ず駅前の伯父さんの店に立ち寄り、腹いっぱい餃子を食べてから実家に帰る、ということを繰り返した。 実家では母が手料理を作っているので、それも頑張って全部食べることになる。 末っ子の母とは年が離れていた伯父さんも歳をとり、後継ぎもなかった。 (私は時々、店を継がしてもらって餃子を作りたいなぁ、と思うこともあったが、やはり東京で色々なことをしたかったので、そういう話を実際にはしたことはない) そういう状況の時に駅前の再開発があり、伯父さん夫婦は駅前の店をたたんで、駅から少し離れた場所でカウンターだけの小さな店を始めた。 中華料理店ではなく、餃子とお酒の店である。 夕方から深夜までの営業時間で、餃子メインでお酒と中華の肴を出す。 夕方頃は昔からの馴染み客、夜も遅くなると水商売の方々がやってくるような店になった。 餃子が美味しいこともあるが、伯父さん夫妻が朗らかで楽しい人柄だったので、店を小さくして場所が変わったあとでも、常連客がたくさんいたようだ。 私は帰省の時しか行けないわけだが、必ず実家に帰る前に伯父さんのその店に立ち寄り、たくさんしゃべり好きなだけ飲食した。 私は、伯父さん伯母さんが、大好きだった。 何年も過ぎていき、 残念なことに、伯母さんが健康を損ねたこともあり、その小さな店も閉じることになった。 名物の【『香港亭』餃子】も、表向き”終焉”となった。 ただし、伯父さんの自宅に行けば、必ずその餃子が食べれた。 冷蔵庫にいつでも50個100個くらいは餃子ができる量の餡が寝かされているのだ。 伯父さんの家に行くと、 「餃子、食べるじゃろ?」 「うん」 というのが、あたりまえのことであった。 時が過ぎ、伯母さんが亡くなり、私の母も亡くなった。 この二人は、【香港亭餃子】のレシピを暗記していた。だが、その二人はこの世にいなくなった。 丈夫そうな伯父さんは、いつまでも生きそうだとは思ったが、 「香港亭餃子のレシピを伝授してもらわねば」 と、思うようになっていた。 ある帰省した冬、私はそのことを伯父さんに言った。 伯父さんは、 「ほぉ」 と少し意外そうな表情をしたが、喜んで、すぐ了解してくれた。 二人でスーパーに行き、餃子の材料を買った。 さぁ、伝授である。 私は、母が【香港亭餃子】を家で作っていたから、おおよそのレシピは知っていた。 けれど、レシピについて深く考えたこともないし、実際に自分で作ったこともなかった。 私はメモを取りながら、伯父さんの作業と調理を見ていた。 【香港亭餃子】は、小ぶりで皮が薄い。 モチモチした皮ではないから、あえて極端に表現すれば、最初の食感は『カリッ、パリッ』という感じに焼ける薄い皮が特徴なのだ。 「皮は市販の一番薄いのでもええ。問題は餡だからな」 と、伯父は言った。 (つづく) |
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