プロレス好き [2]

プロレス好き(2)

選手が気絶してしまえば、誰がどう見ても試合終了である。
押さえ込めば3カウントだし、10カウントされればノックアウトである。

が普通、プロレスの試合ではレフリーもカウントしないし、相手選手も押さえこまない。
選手はスタンピング(足裏で蹴る)したり、頭髪を掴んで気絶している選手を立たせようとしたり、
「こいつ、どうなってんだ。ええ!」
というような観客へのアピールで時間を稼ぐ。
相手をいたぶるように顔面に強烈なビンタをして、意識を戻そうとするときもある。

そのうち相手選手は意識を回復し、試合が続行できる。

誤解のないように書いておくが、そのまま押さえ込んで3カウントが入ってしまい試合が、数十秒で終わったのを何度か見たこともある。
そういう場合に、どのように試合を進めるかは、そのときの状況で選手やレフリーが判断するのである。たぶん。

これをどう考えるかがプロレスを観れるかどうかの、一つのポイントでもある。

「おかしい!」
と思うのは、それはそれで普通である。
そういう人は、たぶんプロレスを観れないし、たぶん試合を八百長扱いする。
それもまあ、もちろん常識である。それそれでいい。

他の格闘技と異なるプロレスの独自性は、
【相手の技を(全てではないが)受けて試合を成立させる】
【試合に負けても、主役になれば勝ったことになる】
ということである。

考えてみれば、 そんな格闘技はありえない。
相手の攻撃を受ければ、即やられる(負ける)。
プロ格闘家は、勝ってナンボである。

そういう【プロレス特性】を受け入れられない(それはそれで極めて正常な感覚)人間は、選手も観客もいわゆる格闘技方面に行くしかない。

プロレスという競技はいろいろな変遷によって、【攻撃を受ける形式】になっている。
これはもはや良し悪しではない。それこそがプロレスであろう。
よってプロレスラーは、相手の攻撃を受けられる強靭で柔軟な筋肉で包まれた身体を作り、受身を数百数千回練習することになる。

人間の脳は鍛えると慣れてしまい脳震盪をおこしにくくなるらしい。
(もちろん、身体的には超危険!)

江戸末期の有名な剣豪は、
「竹刀で脳天を打たれてクラクラして負けてしまわないように頭を柱にぶつけて慣らした」というのを司馬遼太郎先生の文で読んだことがある。

「プロレスは信頼関係である」
と言われる。
それは【ある程度相手の攻撃を受けなければならない】という格闘技にあるまじき部分があるからである。

わざわざ攻撃を受けてやるのにむちゃくちゃなこと(えぐい攻撃)をされてはたまらない。
「たまらない」という意味は、
『いくら鍛えていても身体に危険が及ぶ』ということが主要素だが、
「わざわざ受けてやっているのに、そんなひどいことをするなんて!」
という感情的なものもあると私は思っている。

このあたりは、『受け身の上手下手』との関係もあるので、なかなか難しいところではある。
「それぐらいポイントをずらして(ずらせばダメージが減る)、わざとふっとんで、オレの技をすごく見せる技術を持ってろよ」
と、攻撃側は思うだろうし。

こういうプロレスの基本部は書いても書いても相手によっては、まったく伝わらない。
書いているのは理屈なのだが、実のところ、おそらく…もはやこの部分は理屈ではないからである。
そういうプロレスの特性を容認できる人でなければプロレスを受け入れられないようだ。

格闘技であれば本来絶対に受けてはいけない相手の攻撃をある程度受けて、肉体の強靭さや精神力を観客に見せる義務?のあるプロレスは、選手にとってはまことに難しいと思う。

だから、私はプロレスラーの皆さんを深く尊敬している。
大きな致命的な怪我なく(所詮それは無理なことなのだが)、素晴らしい試合を期待しています!

(このお題、完)

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2018年12月03日