R日記02一覧

三原市の風景 『新高山城址、沼田川』

 

私が旅に出ている間に、首都圏では色々騒ぎがあったようですけど、家を守っている執事(当サイトの管理人れたす)からの連絡や、テレビ、ネットのニュースなどで、概要は知っています。

 

あの【やっさだるマン】さんが、大活躍された、とか。

 

やっさだるマン…。

前々から、存じ上げています。うちの執事の故郷のキャラですもの。

 

執事が狂ったような【喜び大爆発】の報告を、LINEやらメールやら電話やらで私に伝えてきています。

故郷を遠く離れて何十年の執事でさえ、このように狂喜乱舞しているということは、おそらく三原市民の皆様は、まだ3月ですけれど、寒気で盛り上がり【臨時やっさ祭り】を開催されているのではないでしょうか?

 

そんなことを考えていると気になってしまい、九州南部から飛行機に乗って、三原を目指してしまいました。

広島空港は三原市にありますしね。(三原市内までは遠いですけど)

 

空港から三原市内行きのバスに乗ると、道路は山を下って沼田川(ぬたがわ)べりに出てきます。

その沼田川沿いに、小高いもっこりした山が見えてきました。

あら、あれが『新高山(にいたかやま)城址』と『古高山(ふるたかやま)城址』かしら?

小早川隆景が三原城を生作るまでの小早川家の居城があったところで、まだ山城だったころです。

 

沼田川は瀬戸内海に流れていますけど、ここからは河口までは10数キロあります。

こんな上流にいたなんて、まだ瀬戸内の水軍と関係が薄かったのでしょうか?

 

新高山(にいたかやま)城
沼田小早川家を継いだ小早川隆景は、天文21年(1552年)、沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築き、慶長元年(1596年)に浮城と呼ばれた三原城へ移るまで小早川氏の本拠とした。

 

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2018年03月18日

三原市の風景 『ファンタジーな三原駅前広場』


新高山城址を沼田川越しに右手に見ながら通り過ぎ、そのあと国道2号線を走って、市街地に入って、駅前にバスは着きました。

 

執事(当サイトの管理人れたす)によると、

「かな~り以前には駅前にはペアシティという建物があったが、今は広場になり、そこに巨大な【やっさだるマン】像と【小早川隆景公】の像が相並んで、三原を守護しているそうだ」

ということでしたが、残念ながら、それは執事の思い違いのようです。

駅前に、今日のピクチャーのような、巨大像などはありませんでした。

(あたりまえ!)

 

我が家の執事は、故郷・三原を離れてあまりにも長く帰郷していないので、妄想でそんなことを考えているうちに、自分の心中にそういう情景を作り上げて、それを事実だと思い込んだのでしょう。

 

広島県三原市は、【瀬戸内三原】というように、瀬戸内海に面した中都市です。

JR駅から南に向かって歩くと、数分で海に出ます。

そして、その海には大小の島々が浮かんでいます。

島影で水平線は見えません。波も穏やかです。

 

執事は東京に出てきて、その夏、初めて海水浴に行って太平洋を見たときに、恐怖を感じたそうです。

波が荒くて、遠くに水平線が見えたからです。

 

「流されたらアメリカまで行くんだろう…」

と思ったそうです。

 

瀬戸内海なら、流されてもせいぜい四国まで。

というより、四国に流れる着く前に必ず、どこかの島にたどり着きます。

沈まなければ。

 

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2018年03月18日

三原市の風景 『三原城址』

 

JR三原駅は、かつてのお城の(石垣の)上にあります。

瀬戸内の海に面して美しい姿を水面に映していた【浮城】と呼ばれた三原城。

現在は石垣とお堀の一部のみが残っていて、建物はありません。

ですから、昔の広大で美しかったお城の姿を想像する手掛かりもありません。

 

上物がほぼ何も残っていないのはとても残念ですけど、整備されたお堀端に立って、駅に隣接している天主台跡を眺めていると、往年の雰囲気はなんとなくわかります。

天主台跡のほかに、中門跡、石垣跡、刎跡(はねあと)、船入櫓跡、船入櫓岩礁などが残っているそうです。

 

小早川隆景公は、毛利氏に属した瀬戸内の水軍を統括していたので、こうして海に向かって開いているお城を作ったですね。

 

うちの執事(当サイトの管理人れたす)は、子供の頃、この天主台跡で遊んだ記憶があるそうです。

 

 

三原城
三原城は永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建てはじめられたと伝わっています。
 現在は天主台や舟入櫓の一部しか残っていませんが、当時は、東は湧原川から西は臥龍橋付近まで約900m、南北には約700mもの長さだったといわれています。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城でした。特に天主台は広島城の天守閣が6つも入る日本有数の広さです。
 満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」とも呼ばれています。
(三原市のHPより)


 

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2018年03月18日

三原市の風景 『小早川隆景像』

 

三原市民は、小早川隆景が好きです。

 

うちの執事(当サイトの管理人れたす)の記憶によると、昔々には市役所前に、小早川隆景公の像があったんだそうです。

(…この記憶、アテになりませんけど)

今は、三原駅北のロータリーにある隆景広場に小早川隆景像があります。

 

三原で育った執事によると、三原は、江戸時代は広島城に本拠を置く浅野氏が大名で領主なのですが、市民はそんなことを覚えていないそうです。三原には、浅野氏の影も形もありません。

 

『三原は隆景が領主。三原城は隆景が築城した名城』

というのが市民の矜持ですから、それもしかたないようです

 

沼田川をさかのぼった沼田東町納所(のうそ)というところに、小早川家の墓所がある曹洞宗米山寺があります。

執事は子供の頃、この辺りの山に毎年マツタケ狩りに行った記憶があるそうです。

 

小早川家は、隆景が秀吉の信任を得たこと、秀吉の妻おねの血縁の羽柴秀俊を養子にしたこともあって、一時期は大いに発展しましたけど、関ケ原の顛末(小早川秀秋の寝返り)で、いや~な家名になってしまいました。

 

うちに執事は、(おそらく全ての三原市関係者も同様でしょう)、

「あれは隆景公と関係ないアホ!」

と切り捨てて、精神の均衡を保っているみたいです。

(…うちの執事の私的見解)

 

小早川隆景が『三原の隆景』と呼ばれたように、三原も『隆景の三原』なんですね。

 

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
竹原小早川家第14代当主。後、沼田小早川家も継ぐ。
毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。
竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では五大老の一人に任じられた。
実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。
特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。
(Wikipediaより)

 

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2018年03月19日

三原市の風景 『筆影山』

 

三原市民のほとんどは、おそらく何度もこの『筆影山(ふでかげやま)』に登っているというそうです。

うちの執事(当サイトの管理人れたす)も、学校の遠足や家族での行楽(こういう時は自動車)で何度も登ったそうです。

 

山頂から見る瀬戸内の展望は、たくさんの島々が美しく海に輝き、とても素晴らしです。

しまなみ海道も見えます。

 

「ひつえいざん」と漢語風に読むこともあるそうですけど、日常的には「ふでかげやま」です。

うちの執事によると、『ふでかげやま』というより、『ふでかけやま』と、『げ』ではなく『け』と発音していたらしいです。

(…このことは、うちの執事だけの個人的なクセかもしれませんが、そう言い張るので、ここに記しておきます)

 

執事が子供の頃に住んでいた場所からは、いつも筆影山が大きく見えていたそうです。

山に近すぎると山の形がわかるようには見えないし、遠すぎれば山そのものが見えなかったりします。

執事が言うには、

「筆影山を見るのに、ちょうどいい場所」

で、育ったそうです。

 

うちの執事にとっての三原の地理的イメージは、この『筆影山』と『沼田川』と『瀬戸内海』だということです。

 

筆影山(ふでかげやま)311m

三原市南部にある桜の名所として知られる山。山頂に展望台があり瀬戸内海を一望できる。(南西隣の竜王山にも展望台あり)
山名は海に映ると山の形が筆の様に見えるところから、江戸時代後期の儒者である頼山陽が命名したとか。
山頂の展望台から眺められる多島美は瀬戸内海髄一と評される。1950年瀬戸内海国立公園の一部に指定された。

 

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2018年03月20日

三原市の風景 『たこのまちのオブジェクト』

 

執事(当サイトの管理人れたす)が進学で三原を離れた頃(ん十年前)は、まだ三原は【タコのまち】というキャッチフレーズを打ち出していなかったそうです。

 

ある日、故郷から【たこせん】が届いて、「なんじゃろ、これ?」と。

母親に電話して訊いてみると、

「三原は『タコのまち』じゃけ」

と、さも当然そうに言われて、

「おぉ、いつからそうなったんじゃ!」

と、驚いたそうです。

 

(我が家の執事の心象風景)

 

もちろん、タコ漁は昔から盛んだったし、タコはしょっちゅう食べていましたけど、身近すぎて『特産』とか考えたこともなかったそうです。

 

(執事は、広島の牡蠣も、すぐ近くの海にいくらでも自生しているのがあって、子供のころから魚釣りの餌にしていたので、上京するまで牡蠣が広島の名産品だと知らなかったようですし…。もちろん、自生している牡蠣と養殖の牡蠣は別物なんですけどね)

 

 

これが執事の大好物の【たこせん】。

執事は、ちゃんと監視していないと、一袋2枚入りの【たこせん】を一度に20袋は食べてしまいます。私が食べるぶんがなくなります。

 

 

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2018年03月21日

やっさだるマン(三原市の公式マスコット)の映画

 

お久しぶりです。

 

【やっさだるマン】さんの映画を観てきました。

そこで、思わず引いてしまうような執事(当サイトの管理人れたす)の興奮する姿を見てしまいました。

 

映画が終わり、舞台挨拶が終わり、お見送りが終わり、そのあと劇場の外に【やっさだるマン】さんが出てきてくれましたが、みなさん遠慮して、遠巻きにして写真を撮っていました。

 

そこに我が執事が勢いよく飛び出し、【やっさだるマン】さんのそばにピタリと片膝つき。

「撮れ撮れ、撮ってくれ!」

と、妙なポーズをし始めました。

 

【やっさだるマン】さんは平気だろうけど、中に入っている方は恐怖を感じていらっしゃるのでは?と心配で心配で。

(…中には誰も入っていないといファンタジー的には心配無用!)

 

私はその場から逃げようかと思いましたが、執事の熱意に打たれ、まあ写真くらいはとってあげようか、と。

 

と、次の瞬間。なんと!

【やっさだるマン】さんのほうから、ぐぐっと執事に頭の部分を寄せてくっついてきました!

 

二人は、いい感じで側頭部と側頭部をくっつけて、ラブラブ??

 

わぉ! ある意味ファンダジーだわ、これ!

 

私は迷わず、シャッターを数度押しました。

 

もちろん、写っているのはファンタジーでも何でもない、おかしな大人の男。

それが【やっさだるマン】さんにくっついて、ニコニコ笑って興奮しています。

 

ファンタジーではなく、ホラー…。

 

仕方ありません。

執事の故郷のゆるキャラなんですから…。

 

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2018年04月21日