<1988年>結婚式

結婚式

(1988年11月20日)

【 飯田橋に集合してくれたパックスソフトニカの仲間 】

私はパックスソフトニカ(以下PS)で知り合った女性と結婚した。

私が、PSによる『小切手事件』で騙されて脅されて、PSを去って半年以上たっていたが、PSに在籍している仲間たちは、飯田橋の教会での結婚式(手作り披露宴パーティー)に来てくれたのだ。

ほんとうに嬉しかった。

そのときの写真の一部が、これである。

(※顔部分にボカシを入れてある)
(※師匠の田村氏は、披露宴から参加)

教会で式を挙げたのは、(私は信徒ではないが)キリスト教に近い人間だったからである。
『近い』というのは、私は中学生の頃に、外国の人と英語をしゃべりたくて、学校前にあったルーテル教会に出入りするようになり、それで賛美歌を歌ったり、聖書を読むようになり、後に大学ではキリスト教学科で学んだからである。
(ゲーム開発に夢中になり、卒業はしなかった)

私はずっとフリーランスだったが、PSで商品化した『MSXバレーボールゲーム』をファミコンに移植する際の監修指導のため、PSに通うことになり、後に妻となる女性と仲良くなったのだ。

私は、そもそもPSと対等で自由な立場だったが、ファミコン移植のバレーポールゲームが任天堂ブランドとなり、移植完了~発売された後も、PSを救ったバレーボールの権利者として、任天堂さんといろいろ調製することもあり、居残っていた。

ところが、PSから契約書もお金ももらえず、お金の匂いを嗅ぎつけてパックスエレクトロニカ(以下PE)から、PSにやってきたT氏に、
「部長にするから、おれの言うことを聞け。悪いようにしないから」
と意味不明のことを言われて困惑していた。

意味不明…と言うのは、私はフリーランスで、任天堂バレーボールの権利者で原作者で移植ディレクターなので、その私の立場を明確に認めて契約書を出し、私にきちんとお金を払ってから次の話を、というのが筋だからであった。

「任天堂から入ったバレーボールゲームの金は、他で使ったから、今無いんだ。まあ待ってくれ」
という、とんでもないことをT氏は平然と言っていた。
移植担当者でPS役員のH氏も、
「PSが稼いでも、PEにお金を持って行かれてしまうんだ」
と、しばしば私に愚痴をこぼしていた。
このことは、H氏のファミ通インタビューや、同人誌『任天堂バレーボールを作った男』にも、それらしきことが書いてある。

私のバレーボールゲームは経営状態が悪かったPSだけでなく、親会社のPEをも救ったのだが、救ったということは『私の権利を無視して任天堂と契約し、入ってきたお金は勝手に別のところに流用された』ということである。
(この件は、別のところで書く)

私はそういうわけで、1986年の2つのバレーボールゲーム発売後も、お金ももらえず、だが『任天堂さんへの顔』として去るわけにもいかず、PSで仕事をしていた。

そのとき、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』のデジタイズ作業を受け持ち、そのあと任天堂アイスホッケーのディレクター補などをした。

アイスホッケーのディレクターは、宮本さんであった。
宮本さんとは、バレーボールゲームの移植作業で仲良くなり、PSが任天堂さんの開発部隊になったため、また一緒に開発をすることになったのだ。

宮本さんは、私のバレーボールゲームのキャラの『腰振り』がお気に入りで、
「本谷さん。アイスホッケーのキャラは、あの『腰振り』を再現するよ!」
と言ってくださり、実際にそうなった。
(アイスホッケー開発については、天才プログラマー中島氏のことも語りたいので、この後のその項でお話しします)

1988年の春頃、PSに完全に裏切られて(『小切手事件』)、騙されて脅されることで嫌気がさし、精神的な打撃で体調も悪くなり、PSを去ったという、私にとって人生最悪の時期であったが、結婚式に仲間が来てくれたことが救いだった。

そのため、この『1986年のバレーボールゲーム』の最初に、このことを書きたかったのである。
良い仲間、優れた技術者がいたのである。
だが、お金に目がくらんだT氏と、最初はT氏に反発していたが、社内で孤立していたためT氏にくっついてしまったH氏の二人と、他のメンバーとの間には溝ができていたのである。

ちなみに、この結婚式。
私はPSからもらえるはずのお金をもらえなかったため、『任天堂バレーボール』の権利者で原作者で移植ディレクターでありながら、お金がなく、一部母親に借金して式を挙げた。
よって経費節約のため、披露宴は教会近くのレストランを借り、料理以外は全て手作りであった。

私はこの日、教会での予行練習、レストランとの打ち合わせのため、自分の式なのに、駆けずり回って大汗をかいていた。

写真とビデオ撮影は、高校の同窓Mとその会社の社員さんがやってくれた。
高校時代は、『ディープパープル』のリッチー・ブラックモアよろしく、ギターを鳴らしていたMである。

披露宴の司会は、私の親友、F。
この男、のちに、オルケスタ・デ・ラ・ルスのマメージャーとして世界を巡る…。
彼とは、中学時代のバレーボール部が一緒。
そのあとはバンドを組み、高校時代に『ポプコン広島県大会』に2年連続出場した。
ちなみに、最初に出た年のポプコン世界大会優勝者が、中島みゆきさんである。

個人的な結婚式のことを最初に書いた理由は、もう一つある。

『SPにいた私の妻も、PSの被害者』だからである。
そのことは、このあと書きましょう。



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2025年09月01日