<1985~1986年>原作『MSXバレーボール⇒ファミコン移植の経緯

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親会社パックスエレクトロニカに

に収益を奪われていた、パックスソフニカ…。

その窮状を救うのは、私が持ち込んだ

『MSXバレーボール』のファミコン移植だ!

この項は、
(A)-② 
『私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、
任天堂バレーボールの直接の移植元の原作であること。
そして私が、移植指導監修者であること』
の証明

Retasu's House れたすはうす
ファミコン用のオリジナルゲームを求めて
パックスソフトニカは、『ぺんぎんくんWARS』で
ファミコン開発のノウハウは手に入れたが、
作れるオリジナル作品がなかった。
そこに、私が『MSXバレーボール』を持ち込んだ。
パックスソフトニカは、親会社の横暴で、お金もなく倒産間近…。
これがもう、
『バレーボールで勝負だ!』
という流れが必然でした。
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橋下氏は、自分でオリジナル作品を作りたかったが
時間がなく、私が持ち込んだ『MSXバレーボール』を
ファミコンに移植する方針を、私とパックソフトニカ
(田村氏、橋下氏)の協議で決定


橋下氏は、バレーボールの知識がなかったため、
本谷がバレーボールというスポーツの要点と、
ゲーム構造を説明し、MSXよりゲーム機能に勝る
ファミコンの利点を生かせるよう協力した。

パックスソフトニカを潰さないよう、
成功して、経済的に楽になりたい!
と、私と橋下氏は必死だった。


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任天堂さんの支援は、信じられないくらい素晴らしいものだった。
情報提供、アイデア提供、そして資金的なものも。
私は、任天堂バレーボールだけでなく、アイスホッケー開発にも
参加したが、あれほど恵まれた開発環境はないだろうと思う。


MSXバレーボールが
ファミコンに移植された経緯の概要
私は、完全なフリーランス であり、持ち込んだゲーム作品の権利は、全て私が保有する契約であった。
私と橋下氏は、遅くとも、1984年頃、新百合ヶ丘時代のパックスソフトニカで知り合っていた。
 ⇒ 私の存在をきわめて軽くし、ほぼ無視しているのは、私という権利創作者を隠すためである。
それから、1988年の 『小切手事件』 で裏切られるまで、4~5年間ほど パックスソフトニカで共に仕事をした仲 である。
【パックスソフトニカとの関係】
私は、1983年のデビュー作『PC-6001ベースボール』から数作品、 開発したゲームをパックスソフトニカで販売委託 した。
【任天堂バレーボールの原点】
私が単独開発した 『MSXアタックフォー』 を、田村氏 (パックスソフトニカ社長or筆頭役員) ルートでパックスソフトニカに持ち込んだことで、任天堂バレーボールが存在する
橋下氏は、パックスソフトニカ内では別ルート(チーム)であり、いつものように、私の持ち込んだゲーム(バレーボール)に関心はなかったし、そもそもバレーボールというスポーツにも、まったく興味がなかった。
橋下氏もあちこちで述べているように、パックスソフトニカの収益は親会社のパックスエレクトロニカに奪われて、パックスソフトニカは経営危機であった。
【MSXバレーボールをファミコンに移植した理由
パックスソフトニカの経営危機を救うため私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』をファミコンに移植して、会社の生き残りに賭けることになり、私もそれまでの友誼から全面協力をした。
そのため、当然バレーボールをゲーム化して、その構造がわかっている私がファミコン移植をするつもりであったが、私はまだファミコン開発の経験がなかった。
私が勉強しながら移植していると、その間にパックスソフトニカが潰れてしまうのでスピード感が必要。
そのためパックスソフトニカを救いたいと原作者の私が移植を許可し、ファミコン開発経験者の橋下氏に移植プログラムを依頼 した。
橋下氏は、自分のオリジナルゲームを作りたいため、私の原作のゲームの移植を嫌がったし、 「私(橋下氏)は、バレーボールがわからない」と不安がったが、『私(本谷)が全面指導するから大丈夫』 と、田村氏と私で説得した。
橋下氏は、バレーボールにも、私がゲーム化した作品構造の知識がなかったため、その後も、 『任天堂バレーボール』が完成するまで、私(本谷)が全面監修指導した。
もちろん、橋下氏のプログラマーとしての技術が、ファミコン版バレ-ボールのゲーム性向上に果たした役割は大きいことを、監修者の私はよく知っており、私のほうは、これまでも感謝を述べてきた
ただし、彼は創作者ではない
【任天堂ブランドとなる】
浦山氏の活躍で任天堂ブランドに決まった後は、当然のことだが、 私が任天堂の宮本氏とともに、ディレクターとなった。
私のほかには、任天堂にもパックスソフトニカにも、バレーボールがわかる者がおらずバレーボールのゲーム構造の開発は、私の独創 だったからである。

⇒ 2025年に私は知ったのだが、驚いたことに、 橋下氏が『創作者を詐称』 していた。
任天堂ブランドになって、橋下氏は、本当のやる気が出てきて、 私も懸命に彼と仲良く協力 した。
任天堂さん(宮本氏)には、主に演出面などで多大なエンタメ指導とアイデアをいただいた。
そのご縁で、のちに、私は『任天堂アイスホッケー』のディレクター補をすることになる。
【任天堂バレーボール開発後】
『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発に、私と橋下氏は加わった。(1986~87 開発当時時の写真あり)
【パックスソフトニカの経営者の交代?】
親会社のパックスエレクトロニカから立本氏がやってきて、田村氏を追い落とし(詳細は私には不明)、社長のように振舞い始め、 お金を勝手に不正流用 し始めた。
立本氏が私に無断で、任天堂とバレーボールゲームの契約を結んだ と、後で知ることになる。
1987年1月、任天堂さんの勧め?でアメリカ(ラスベガス)の『Consumer Electronics Show』に、私、橋下氏、立本氏、立本氏の友人の4人で行く 。(写真あり)
【本谷、功績と任天堂さん向けの顔として部長の肩書をもらう】
会社を代表して、女性社員の結婚式に出席する(写真あり)
【宮本氏と再タッグ】
1987年。私は 「任天堂アイスホッケー」の開発 に、ディレクター補として参加。『MSXアタックフォー』のキャラクターイメージで、アイスホッケーのキャラクターがデザインされる。
箱根湯本への社員旅行 へ、みんなと参加。(立本氏、橋下氏、田村氏は不参加。浦山氏は参加)(写真あり)
私と懇意の田村氏(社長)が、なんらかの理由では完全に発言権をなくし、私の立場が崩れ始めることを実感し始める。
【立本氏は、使い込んだお金をうやむやにするため、橋下氏は困窮していたため結託
1988年。 『小切手事件』 で、パックスソフトニカに完全に裏切られる。 (連載で詳述)
【任天堂バレーボール大成功の天国から地獄へ】
その後、私は、権利をうやむやにされ、創作者の名誉も失い「このことを任天堂に訴えれば、おまえらを潰す」脅されて人間不信になり、ゲーム開発者としての大きな希望が深い絶望となり、パックスソフトニカから離脱する。
の後も、長くトラウマに悩まされることになる。(連載で詳述)



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2025年09月22日