<1971年~>私の熱いバレーボール愛

1971年~

バレーボールゲームを創りたい男の歴史

この項は、
(A)-① 
『原作 『MSXバレーボール(アタックフォー)』 の開発の経緯』の証明
中学時代の部活と
ミュンヘンオリンピックの金メダル
中学校でバtレーボールに出会い夢中に
Retasu's House れたすはうす
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【地元の実業団チーム『帝人三原』】
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かつて三原市には『実業団バレーボールチーム・帝人三原』があった。

…プロジェクトXみたいな出だし…。

広島県は昔、バレーボール県で、『専売広島』(JT)は日本リーグの強豪で、ミュンヘンオリンピック金メダリストの猫田選手が所属していました。
帝人三原は『実業団リーグ(2部リーグ)」だったのですが、街に本格的なバレーボールチームがあったため、私も試合を観戦して、すごい刺激を受けていました。

私は、中学校(三原三中)でバレーボールに熱中し、学校を風邪で休んでも、放課後の部活には必ず出る!という真面目さだったのです。(^o^)/

授業を休んだ日の夕方に、私が野外のバレーボールコートでボールをひっぱたいていると、先生が、
「あっ、おまえ何しょ~るんじゃ!病気じゃなぁんか!」
と、私を心配するあまり、強めに怒鳴ってくださるのです。(^o^)
「もう治ったんよ!」
と、私は平然と、回復の早さとバレーボール愛を表明しておりました。

そんな私、帝人三原の練習に参加(見学に行ったら、ちょっとやらせてもらえた)したことがあります。
中学生が大人の高さのネットでプレーするのは、ゲゲゲっ!でしたが、楽しかったです。
球拾いは…。

1972年に、ミュンヘンオリンピックで日本男子が金メダルを獲ったこともあり、私も、
「オリンピックに行くんじゃ!」
と妄想していた頃です。

そういえば、我が三原三中。
私が三年生の時に、真夏の野外の鷺島での予選で2位になり、初めて県大会に行きました。
別に私が活躍したわけではないですけど。

県大会は三次市でありました。
初めて、体育館で試合しました。
だいじな県大会で、初めて体育館で試合…。

…この中学バレー部の話、面白いのですが、長くなるので割愛します。
残念です。

私は、この10年後にゲーム開発者になり、MSXでバレーボールゲームを作り、それが移植された、『任天堂バレーボール』のディレクターを、あの宮本さんと共同でしました。
世界で400万本売れた『任天堂バレーボール』の原作者でディレクターですから、ぶち大金持ちになる!はずが…。(~_~;)

今年(2025)になって、あるきっかけで、『任天堂バレーボール』開発の内実を本に書いたり、情報発信し始めました。
当時の黒い記憶を『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』で、ある程度吐き出したことで、バレーボール中継なども、やっと楽しく観れるようになりました。

私の一つの『原点』が、三原市のバレーボール環境だったのです。

1972年ミュンヘンオリンピック
日本男子バレーボールが、金メダル!
私のバレーボール熱が、バクハツ!
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ミュンヘンオリンピックで、男子チームが金メダルを獲得するまでの感動的な話は、あまりに有名なので、ここでは書きません。

あの日、私は深夜にテレビで応援していました。

私は高校までの6年間、楽器が欲しくて新聞配達をしていたので、朝5時に起き、夕方は部活をし、深夜はテレビという過酷な?スケジュールでしたが、まあ元気な盛りでしたので、睡眠時間が短くとも平気でした。

書かないと書いておきながら、少しだけ書きますと、準決勝のブルガリア戦が『奇跡の大逆転』だったのです。
私は、あの時のブルガリアのエース『ズラタノフ選手』の鬼のような活躍を忘れることができません。

私はバレーボール部だったわけですから、自主練用の自分のボールも持っていました。
金メダル獲得の夜…もう朝方?…私はそのボールに、【僕もオリンピックに行く!】と、黒々とマジックペンで書きました。

オリンピックの金メダルは獲れませんでしたが、世界中で大ヒットした『任天堂バレーボール』の原作者となり、バレーボールをきちんと構造としてプログラムする方法を確立しました。
そして、ファミコンに移植されたバレーボールゲームのディレクターをしました。
レジェンドの宮本さんとも仕事ができたのです。

ありきたりな言い方ですが、それって【金メダル級】では?

その名誉も、私が知らないところで、2025年までの38年間、移植プログラマーが名乗っています。
ビックリを通り越して、暗澹たる気持ちになりました。
とんでもない嘘ですが、大きな嘘ほど平気でつくと、そんなことができるとは普通の感覚の人は思わないので、信じられてしまうのです

そのお話は、別の項で詳しくお話ししましょう。

Retasu's House れたすはうすTBS系列で放送されてた
【(アニメドキュメント)ミュンヘンへの道】
1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組。

バレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(1972年8月開幕)へ向けて取り組む様を、チーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。
(以上 Wikipedia より)

私、毎週欠かさず、観てました。
いまでも覚えているのは、エーススパイカー(OH)の王古選手のエピソード。
記憶違いもあるかもしれませんが、こんな話です。

松平監督は、大きな選手たちに、さまざまな運動能力を求め、その一つとして『倒立してコートを一周する』という課題を与えました。
できなければレギュラー降格です。
日本チームのエースとして、素晴らしい運動能力を持っていた王古選手でしたが、この課題がなかなか克服できず苦労する、というものでした。

結局は、努力の末、王古選手は、その課題をやり遂げるのですが、私はそれを見ていて、
「逆立ちなんかできなくてもいいじゃないか。バンバン、スパイクを決めてくれてるんだから」
と、少々不審を抱いていました。

もちろん、ご存じのように、バレーボールには攻撃守備を含めて、いろいろなボディワークが必要なのです。
自分の身体を倒立で支え、コントロールすることも役に立つとは思いました。
でも、倒立してコートを一周回れないならレギュラー陥落って…。

その他、独自に考案された練習方法も面白いものが多く、雲の上の日本代表選手たちの姿を観ることができるのも嬉しくて、毎週の放送を楽しみしていました。

この日本男子チームが、体格で勝る外国チームに勝つために、みなさんご存じのように、それまでのバレーボールの攻撃を格段に進化させました。

速攻(クイック)や時間差攻撃、移動攻撃というものを創出していったのです。

それが日本チームに金メダルをもたらしたと同時に、単調だったバレーボールというスポーツを面白いものにし、世界的なファンの拡大につながったと言えます、

当然ですが、そのころは、のちのち私がゲーム開発者になるとは思っていませんでした。
なにしろ、パソコンもなく、それで動作するゲームという概念もない時代でした。

10数年後、私は、PC-6001を購入して、たまたま観たNHKのドキュメンタリー番組の刺激でゲーム開発を始め、そののち『MSXバレーボール(アタックフォー)』を創ることになります。

そのゲームがなければ、『任天堂バレーボール』は、この世に存在しません。

パックスソフトニカの不正行為によって、創作者の私は、38年間も隠蔽されていましたが、この世に、この2つのバレーボールゲームは、いまも残っています。





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2025年09月24日