1972年ミュンヘンオリンピック
日本男子バレーボールが、金メダル! 私のバレーボール熱が、バクハツ! |

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ミュンヘンオリンピックで、男子チームが金メダルを獲得するまでの感動的な話は、あまりに有名なので、ここでは書きません。
あの日、私は深夜にテレビで応援していました。
私は高校までの6年間、楽器が欲しくて新聞配達をしていたので、朝5時に起き、夕方は部活をし、深夜はテレビという過酷な?スケジュールでしたが、まあ元気な盛りでしたので、睡眠時間が短くとも平気でした。
書かないと書いておきながら、少しだけ書きますと、準決勝のブルガリア戦が『奇跡の大逆転』だったのです。 私は、あの時のブルガリアのエース『ズラタノフ選手』の鬼のような活躍を忘れることができません。
私はバレーボール部だったわけですから、自主練用の自分のボールも持っていました。 金メダル獲得の夜…もう朝方?…私はそのボールに、【僕もオリンピックに行く!】と、黒々とマジックペンで書きました。
オリンピックの金メダルは獲れませんでしたが、世界中で大ヒットした『任天堂バレーボール』の原作者となり、バレーボールをきちんと構造としてプログラムする方法を確立しました。 そして、ファミコンに移植されたバレーボールゲームのディレクターをしました。 レジェンドの宮本さんとも仕事ができたのです。
ありきたりな言い方ですが、それって【金メダル級】では?
その名誉も、私が知らないところで、2025年までの38年間、移植プログラマーが名乗っています。
ビックリを通り越して、暗澹たる気持ちになりました。 とんでもない嘘ですが、大きな嘘ほど平気でつくと、そんなことができるとは普通の感覚の人は思わないので、信じられてしまうのです。
そのお話は、別の項で詳しくお話ししましょう。
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TBS系列で放送されてた 【(アニメドキュメント)ミュンヘンへの道】
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1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組。
バレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(1972年8月開幕)へ向けて取り組む様を、チーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。 (以上 Wikipedia より)
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私、毎週欠かさず、観てました。 いまでも覚えているのは、エーススパイカー(OH)の王古選手のエピソード。
記憶違いもあるかもしれませんが、こんな話です。
松平監督は、大きな選手たちに、さまざまな運動能力を求め、その一つとして『倒立してコートを一周する』という課題を与えました。
できなければレギュラー降格です。
日本チームのエースとして、素晴らしい運動能力を持っていた王古選手でしたが、この課題がなかなか克服できず苦労する、というものでした。
結局は、努力の末、王古選手は、その課題をやり遂げるのですが、私はそれを見ていて、
「逆立ちなんかできなくてもいいじゃないか。バンバン、スパイクを決めてくれてるんだから」
と、少々不審を抱いていました。
もちろん、ご存じのように、バレーボールには攻撃守備を含めて、いろいろなボディワークが必要なのです。
自分の身体を倒立で支え、コントロールすることも役に立つとは思いました。
でも、倒立してコートを一周回れないならレギュラー陥落って…。
その他、独自に考案された練習方法も面白いものが多く、雲の上の日本代表選手たちの姿を観ることができるのも嬉しくて、毎週の放送を楽しみしていました。
この日本男子チームが、体格で勝る外国チームに勝つために、みなさんご存じのように、それまでのバレーボールの攻撃を格段に進化させました。
速攻(クイック)や時間差攻撃、移動攻撃というものを創出していったのです。
それが日本チームに金メダルをもたらしたと同時に、単調だったバレーボールというスポーツを面白いものにし、世界的なファンの拡大につながったと言えます、
当然ですが、そのころは、のちのち私がゲーム開発者になるとは思っていませんでした。
なにしろ、パソコンもなく、それで動作するゲームという概念もない時代でした。
10数年後、私は、PC-6001を購入して、たまたま観たNHKのドキュメンタリー番組の刺激でゲーム開発を始め、そののち『MSXバレーボール(アタックフォー)』を創ることになります。
そのゲームがなければ、『任天堂バレーボール』は、この世に存在しません。
パックスソフトニカの不正行為によって、創作者の私は、38年間も隠蔽されていましたが、この世に、この2つのバレーボールゲームは、いまも残っています。
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