<1988年>『バレーボールゲーム小切手事件』のあと

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『バレーボールゲーム小切手事件』

のあとに続くブラックな出来事と

ゲーム界への不信と心の不調

この項は、
(B)-④ 
親会社『パックスエレクトロニカ』の闇
の解説
「契約書はあるのか?ないだろ」
パックス側が契約書を作らないでおいて、
ふ~む…むちゃくちゃな理屈である。
さて、そのあと、私はどうなる?

もちろん、私は悔しくて情けなくて、
体調不良で吐きながらも、対抗策を考えた。
権利も名誉も報酬も奪われたのだから。

だけど、いまでもまだ、
『書けないこと』
が、やはりあるのです。
バレーボールゲームをめぐる本当の物語』5章の最後の部分
『小切手事件』のあと、私はダークサイド・ワンダーランド(パックスソフトニカ)にはいられるはずもなく、中島氏、田村氏とともにソフトニカを去ることになる。

このとき、立本氏の『彼の仲間にならない者』への冷酷な面が出た。
私はパックスソフトニカを去るとき、立本氏にこう言われたのである。

「本谷。余計なことをしゃべるなよ。しゃべれば、俺は今後、お前たちがファミコンの仕事ができないようにする」
彼が恐れたのは、私は任天堂さんと私なりのつながりがあったため、私を通じてパックスの内情が任天堂さんに知れることであった。

ソフトニカは、『バレーボール』、『アイスホッケー』を開発することで技術力を任天堂さんに示して、外部開発部隊的な地位を築いていたし、その関係構築に立本氏は全精力をつぎ込んでいた。
私は立本氏と完全に反目しあう仲になるまでは『部長』であったから、彼(立本氏)の活動をよく知っていたのである。
立本氏が私を子飼いにするため、彼の活動を彼のほうから何度も話してくれていたからだ。

田村氏、中島氏、私などが抜ければ、『バレーボールゲーム』、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』、『任天堂アイスホッケー』などの主な開発者が軒並みいなくなる。
そのことを立本氏は任天堂さんに説明しなければならない。

任天堂の下請けとしてソフトニカの地位を安定させたい立本氏にとっては、開発ができるし即戦力がごっそり抜けるのは、大打撃であった。
募集をかけて人員だけは増やしていったが、即戦力などそういないのである。
中島氏や田村氏はとりわけ優れたプログラマーであり、代わりなどいないのだ。

だから、立本氏は私たちが辞めた理由を、私たちに問題があったからだと説明するしかないだろう、と私は考えた。

世の中はファミコン時代なのだから、嘘でもへんな噂を流されれば、ソフトニカを抜けた私たちは何かと仕事がしにくくなるかもしれないと恐れていたのである。
そのため、おかしな話だとは思ったが、私はソフトニカでの出来事を話さず、忘れることにするしかなかったのである。

また、立本氏は、坪井氏が私と付き合っているということで、
「お前は本谷のスパイになるから、クビだ」
と坪井氏をいきなり解雇した。

(略)
このことを私はかなり後で知った。坪井氏は、この話を私にすれば、いろいろ揉め事が増えると思い、沈黙していたのである。

私はパックスソフトニカに嫌気がさしていたから、ともかく空気の良い新天地でゲームを作りたかった。
同時に、私は任天堂さん(宮本さん)との、『バレーボール』と『アイスホッケー』を通じての思い出を大切にしたかった。
バレーボールゲームの諸権利を奪われた私には、作品やその経験などが残された誇りであり、それを汚したくなかった。

そういう気持ちもあり、私はゲーム界にいるときも、そこから離れた後も、ほぼ40年ほどの間、じっと沈黙を守った。
沈黙したというより、別の言い方をすれば、『思い出したくなかった』というのが正しいだろう。
『小切手事件』を思い出すと、心が腐敗して日々の生活が、どんよりしてしまうからである。

ゲーム開発者として、そこそこの活躍をし、大好きだったバレーボールのゲームを創り世に出した、という誇りを胸にしまい込んで、私は生きていくのである。

自分で言うのもなんだけれど、慎ましいでしょ?

ところが…である。
実はその『誇り』まで奪われていたと、実に約40年後に、私は知るのである。

会社の利益として私の権利を奪うために、橋下氏は『小切手事件』のときに、
「任天堂バレーボールは、自分(橋下氏)が作ったオリジナルだ」
と言ったのだと、私は考えていた。

ソフトニカ内部の抗争だと、矮小化して捉えていたのである。

ソフトニカから発売された私の原作ゲームがあり、私がゲーム構造を指導し、任天堂さんとともに監修した事実があるのだから、その部分は消すことができないと、私は安心していたのである

ところが橋下氏は、『本気』だったのである。
彼は、私や私の原作ゲームにほとんど言及せず、その存在を消した。

でも、もういいでしょ?
40年は、あまりに長いでしょ?
もう、本当のことを世間に話してもいいでしょ?

私が今日もし死んだら、もう語れる人はこの世にはいないのだから。
私が明日もし死んだら、私の『任天堂レーボール』は、永久に奪われたままになるのだから。



坪井氏の受難(とばっちり)
「今日で辞めてもらう!」
テレビで任天堂ゲームやゲーム機関連の宣伝や、バレーボール中継があると、我が家は、どんよりした空気になります。
最初に、サブストーリ的な、そのお話をしておきましょう。
坪井氏は、パックスエレクトロニカ(親会社)からパックスソフトニカ(子会社)に移籍した正社員で、私の妻です。
1988年の11月に結婚しました。
『小切手事件』で、私の権利も報酬も無視されたので、私はフリーランスで社員でもありませんし、部長ではありましたが、もうパックスソフトニカに居る理由がなくなりました。
「反撃をせねば」と考えながら、私は去りました。
さて、坪井氏ですが、私がパックスソフトニカを去っても、彼女は働き続けるつもりでした。
社員のみんなとは仲良くやっていましたし、4年も勤務していたので、彼女が辞める理由はありません。
任天堂バレーボールで儲かっていたパックスソフトニカは新入社員も募集し、海外社員旅行を計画していました。
坪井氏は、ともかく、その海外旅行を楽しみにしていました。
ある日、新しく入って仲良くなった女子社員に、
「海外旅行、楽しみだね」
と言うと、その女性社員の顔が曇り、
「坪井さんは、行けないみたいだけど…」
と。
「!!!!????」
その後、坪井氏は立本氏に呼ばれました。
「あんたは本谷と付き合ってるらしいな。本谷はオレの言うことを聞かなくて出て行ったんで、あんたはスパイになるかもしれない。任天堂さんの仕事のことなど、本谷にしゃべられては困るから、今日で辞めてもらう
と。
「今日?急にそんなこと言われても困ります。それに、私と本谷は関係ないでしょ」
「関係ある」
「私は今までこの会社で何年も頑張ってきました。海外旅行をみんなと行くのを楽しみにしてるんです。どうしてもというなら、せめて旅行の後にしてください」
立本氏は、自分についてこないものには、とても冷酷になります。
「だめだ。今日でクビだ!」
今日でクビ?
40年前とはいえ、こんなことしていいの?
坪井氏は、唇をかんで反撃をこころみました。
「…もちろん会社都合になりますよね」
「どうだろ」
「…」
その後も、嫌がらせは続き、失業保険のための書類をなかなかもらえず、何度も電話で立本氏に、
「書類をください」
と頼んで、何週間後かに、やっと送付されたそうです。(~へ~;)
Retasu's House れたすはうす
私はもうパックスソフトニカにいないので、あとで坪井氏が悔し涙を流しながら教えてくれました。
私は、あまりのばかばかしさに腹が立ち、
「俺が話をつけに行く」
と言いましたが、彼女は、
「あそこは立本さんが来てから雰囲気がおかしいし、もう辞めていい」
と諦めていました。
「そういうわけにはいかない。君は関係ないだろ」
「この後、あの人たちに何されるか、わからないから、もういいよ」
そもそも潰れかけていたパックスソフトニカが任天堂バレーボールで潤っているのは、自分で言うのもなんですし、100%とは言わないまでも、バレーボールゲームを独創して作り、パックスソフトニカに持ち込んだ私のお陰ですから、う~ん、と。
私が宮本さんとディレクターもしたのだけど、その私を裏切り、関係ない坪井氏を即日解雇…。
もはや、無茶苦茶でした
坪井氏(妻)は穏やかな性格ですが、40年近く経った今でも、この話を思い出すと、
「あんなことしていいの」
と憤っています。
このことは、私より記憶力の良い彼女は、細かなことまで…その時の立本氏の薄ら笑いとか…覚えていて、私が本を書くと決まった時に、
「このことは絶対書いて!」
と、昨日のことにように気持ちが悪くなるようです
そういうことで、我が家では、2024年末に私が、同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を執筆し、レトロゲームイベントに参加したり、YouTube出演などして、私の心が多少とも解放されるまで、『任天堂バレーボール』『任天堂』『バレーボール』『テレビゲーム』『パックスソフトニカ関連』は、全てタブーでした。
そのことを思い出すと、家庭が暗くなるからです。
本を書いて、トークイベントやYouTubeで、当時のことを語り、Xなどにも投稿して、世間に当時の闇を伝えることができて、私の心も少しばかりほぐれ、バレーボールの試合を積極的に観たり、ゲームの話も家でするようになりました。

ふぅ~やれやれ。
人生の中での、失われた40年ですよ~。(ー_ー)

 
私の絶望と憂鬱と体調不良
※準備中 …思い出すと、40年も経った今でも、気持ちが悪くなるので、気分の良い日に書きます。
 
 
 



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2025年10月14日