エッセイ05一覧

東京タワー (大学で上京した『超方向音痴』の私は東京タワーを見学しようとするが…)

東京タワー

私は東京に住んで数十年経過してから、やっと東京タワーを訪れた。
真下から見上げる夜の東京タワーは、美しかった。

「やっと、来たぞ」
と、私は胸がいっぱいになった。

感激?
スカイツリーさえある時代に?

実は私は上京したての頃、東京タワーに行こうとして行けなかった苦い過去ががあったのだ。

既に遠い昔となった数十年前、大学生となった私は広島から出てきて板橋区に住んだ。

「東京タワーに行かねば」
と、田舎者の私はボロアパートでの荷物整理がすんだころに考えた。

東京タワーが見たいのは、きわめて普通の感覚であろう。スカイツリーなどないし、サンシャイン60もまだ建設中だったし、新宿副都心のビルもまだ少なかったし。

そう、高い建造物の代表は、やはり東京タワーである。

昔のことで、インターネットなどかけらもない。パソコンというものが売り出されて間もない頃である。誰も持っていない。

そこで本屋で買った東京都観光マップみたいなものを参考にして出かけるのである。田舎から上京したばかりで、右も左もわからないのだ。

とはいえ行き方は簡単である。なにせ天下の名所の東京タワーである。
観光マップ案内に書いてある地下鉄駅まで行き、地上に出ればよい。そこに巨大な東京タワーがそびえ立っている!誰でもわかる!…はず。

私は池袋駅まで歩いて、そこから地下鉄を乗り継ぎ東京タワーに一番近い駅と観光案内に記載されている駅で降りた。何駅だったかは覚えていない。なんとなく「芝公園駅」だったような気もする。

あれから路線もたくさんでき駅もたくさんでき、そもそも今でも都内の地理に不案内だから、そこの駅で降りたのかの確信はない。だが「芝公園駅」なら東京タワーに近い駅であるし、きっとそこで降りたのだろう。。

私は地下鉄から地上に出た。
もう一度言う。広島から上京したての田舎者のである。都内の地理は、皆目わからない。

気は弱くはないし人見知りもないが、やはり田舎者の自分が都心にいるというプレッシャーはすごかった。地上に出たとたん、なにやら周囲の建物群に圧倒された。
そのうえ、その建物群のせいで、見えるはずの東京タワーが見えないのである。

「まさかな…。あんなデカイものが見えないわけないだろう。建物の陰に隠れているのは間違いない」

私は、観光マップも見ることなく歩き始めた。そこらへんの角を曲がって景色が変われば、そこに333mもある東京タワーは見えるはず!という確信があった。
確信というより、自分が地面に立っているというくらい当然の話である。

ところが、4つ5つの角を曲がっても、東京タワーが見えないのだ。
私は、あせった。
「なんで?」
(念のために行っておくが、私が東京タワー近くの駅で降りたのは確かなのです)

普通であれば、
「東京タワーはどっち方向ですか?」
と道行く人に訊けばよい。それだけだ。
しかし私は、訊けなかった。

まず東京タワーに行くということが『田舎者っぽい』気がして恥ずかしかった。
次に、すぐそこにあるはずの東京タワーのことを訊くことが恥ずかしかった。
「え、すぐそこじゃん。見えないの?」
みたいに思われそうで。

とはいえ、訊けなかった一番の理由は、
「多少道に迷っても、あの東京タワーは見つけられる!」
という自信だった。
まあ当然だ。もいちど言うが、探す相手は巨大建造物なのだ。

ところが、私は東京タワーを見つけられず、数時間歩いて新宿駅に着いた。

そんなことがあるだろうか?
都内と都内近郊に住んで、仕事もして、数十年。
今でも、その時のとこが自分でも信じられないが、事実だから仕方がない。
あなたも信じられないだろうし信じてくれなくてよい。
だが、それは事実なのだ。

私は夢遊病のように総武線沿線を不可解な思いで歩いていたことを、いまでも思い出す。
「あ、ここが四谷かあ」
と初めてみる駅舎のことも覚えている。

私はキツネにたぶらかされたような気持で山手線に乗り、新宿から池袋まで戻り、池袋から下宿まで歩いた。
何のための一日だったのか、さっぱりわからなかった。

その後も私は都内や東京近郊に住み、首都高速を車で走るときは何度も何度も東京タワーを見た。
しかし東京タワーに行ったことはなかった。近くに行ったこともなかった。とくに行こうとも思わなかった。

そして数十年後。
メールが来て、仕事に関係する展示会の場所として示されたところが、偶然にも東京タワーのすぐ横の施設だったのである。
そういう事情で、『私は偶然、東京タワーに行った』のであった。

冬季でもあったので日没が早く、仕事が終わっ手外に出ると街は暗くなっていた。
私はライトアップされた東京タワーの写真を真下から何枚か撮影した。
パシャ、パシャ、パシャ!

その場にいた人々は、私がどれくらい感慨深い気持ちでいるかなど、さっぱりわからなかったろう。
私は、何十年もかかって?、やっと東京タワーを訪問できたのである。

その話は妻に飽きるほどしていたので、妻は私の東京タワー対する奇妙な思い入れのことを知っている。

家に帰って私は顔を輝かせて、妻に言った。
「今日ついに、東京タワーに行ったぞ!」
と。

「そうなの…、よかったじゃん」
と妻はそう言ってくれたが、その目はテレビから離れなかった。

(このお題、完)

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2019年01月14日

方位磁石 (方向音痴の私は、自動車用方位磁石を購入し…)

方位磁石

今は自動車にナビがあって当たり前。それがあれば迷うことはないし迷ってもなんとかなる。
方向音痴の人間にとっては、まことにいい時代である。

また書いてしまうが、昔はそういうものがなかった。
数十年前は、方向音痴にはツライ時代であった。

私はその当時、あるレコード会社の出資で仲間数人とゲーム会社を作り、相模原市に小さな事務所兼ゲーム開発作業所に通っていた。たぶん株主のレコード会社の所有するマンションの部屋だったのだと思うが記憶は曖昧だ。

当時はゲーム会社といっても要するに『なんちゃってベンチャー会社』だから、ちゃんとした組織でもないし就業規則もない。ゲーム開発は定時で帰れるような仕事ではないし、徹夜も当たり前である。
だから終電で帰れないことも多く、私は時おり電車ではなく自動車で、片道1時間くらいかけて通勤していた。

通勤路は単純で、大雑把に言えば16号線と246号線(厚木道路)という幹線の流れで移動すればよく、事務所近辺と自宅近辺の道がわかりにくいが何度も通ううち順路を覚えてしまい、超方向音痴の私でも何も問題はなかった。

「魔が差す」という言葉があるが、その日のことだろう。

私は何かの自動車用品を買うために、帰宅途中で16号線にあるカー用品専門の大型店に寄った。何を買うためだったのかは記憶にないが、たまたま売り場で自動車用の方位磁石を見つけた。
方位磁石といっても、NSEWと方位が描いてある球体が液体の中に浮いていて、ふわふわと方向を指すというようなチープな代物である。

いまのカーナビ時代に、そんなもの車内につけている人はいないが、当時はわりと普通に利用されていた。車のダッシュボードとかオーディオ装置の横の平らなところなどに、吸盤でくっつけておくのである。

魔が差した私は、それを買った。

私はひどい方向音痴だから、車の運転時にはしょっちゅう道に迷っていた。
迷うと車を止め地図を見るのだが、昼間なら何とか太陽の位置と時刻でなんとなく方角がわかるが(…わかっても迷うが)、夜ともなると地図を見ても実際に自分が向かうべき方向がわからないのである。
だから役に立つだろうと思い、その方位磁石を買ったのである。

で、包装を解いて、さっそく吸盤で装着した。
液体の中のプラスティックの球体はゆらゆらと動き方位を示す。
「おお!」
私はついに強い援軍を得たのだ。(勘違い!)

さて家に帰ろう。
いつもどおり、ただただ16号線を東に走り246号線に入り・・・である。それでいいのである。道は記憶しているのだから。

ところが・・・。再び、魔が差したのである。

私は買ったばかりの磁石を使いたかった。試したかった。買っただけでなく、すぐ使おうとした。
ちょうど日も暮れてあたりは暗い。磁石の威力を試そう!

私は地図を見て、いつもより北のほうを走り、裏道を使って、より短い距離で自宅を目指すという野望(無謀)にチャレンジすることにした。
そう、私はいつものルートでなく、違うルートで帰ることにした。

普通の人ならいいが、私は極度の方向音痴である。決してやってはいけないことなのである。

現在の位置と行くべき方向を地図で確認し、だいたい経路を記憶し、私は16号線を離れて北に向かった。磁石はふわふわクルクルと車の振動や車の方向転換に合わせて動き、新たな方位を指し示す。

ああ、すばらしい!

2時間後…。
私は見知らぬ山中を、車でさまよっていた。

ナビはないし、携帯もない。

(あとで調べてわかったのだが)私は事務所とも自宅とも関係ない遠く離れた八王子の山の中にいたのだった。

むやみやたらに明かりを求めて走り回り、やっと公衆電話を見つけ、心配しているであろう妻に電話をかけた。

「え、なにしてるかって?帰宅途中だよ…。え、どこにいるのかって?それはわからない。なんか山の中で遠くに灯りが見える…。え、いつごろ家に着くかって?わかるわけないだろ。ここがどこかわからないんだから…」

私は帰宅後、その磁石をゴミ箱に捨てた。
もちろん磁石に罪はないのだが…。

(このお題、完)

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2019年01月15日

表参道駅のアパレル (「ここはどこ?」と、方向音痴人間はつぶやく…)

表参道駅のアパレル

これも昔の話。

表参道駅から5分くらいのところにあるアパレルの会社に、何度も打ち合わせで通っていた時期がある。

ある日、5~6回目の打ち合わせ日だった。
数年ぶりとかに訪ねるわけでもなく、ほんの数日前にも行ってる場所である。
駅から近いし迷うはずがない。 普通ならね・・・。

私はそれまで、そのアパレルに自宅から通っていた。
同じホームに降り、同じ出口から地上に出る。出たら左側に進む。道なりに進んでから小路を入ると客先のビルに着く。簡単だ。

が、その日、私は別の用事が先にあったので、同じ路線の地下鉄ではあったがそれまでとは反対方向(下り線)の電車で駅に着いたのであった。

「だから、どうした?」って思うでしょ。
私が、方向に関して普通の人ならね。
が、私は普通ではない!(翻って、自慢?)

私はその日、電車から出て降りたことない反対側のホームに立った。
「ん?」
ホームに立ったときの方向が逆なだけで、もうなんか…よくわからないぞ。

そして、これまで使ったことのない出口から地上に出る。
出たとたん、
「ん?ここはどこ?」
なのである。

私の感覚ではもう今までと、まるで世界の景色が違うのである。

ここは地球?
っていうくらい。(これは、さすがに大げさだが…)

何度も何度も地下から出てきたことのある表参道駅の上の交差点なのであるが、私には見たこともない景色に見えるのだ。

なぜかって?
そんなこと、わかりません!

このときの【私の驚き】をみなさんに何とか伝えたいのだが、みなさんは、
「あなたのほうに驚くねぇ」
というところだろうな…。

私はしばらく交差点に立って辺りをぐるぐる見渡していたが、どっちに行っていいのかさっぱりわからなかった。

当然、愕然としたが、よくある事態でもある。

おそらく私のような方向感覚(世界把握能力?)が妙な人には、この違和感がわかるのではないかと…(期待する)。

私は5分くらい『自分のいる世界の把握』に努力したが、約束時間に遅れそうなので自分で解決することは諦めた。

相手に電話をして迎えに来てもらったのだ。

もちろん、客先の担当者には、ひじょうに怪訝な顔をされてしまったが、事務所についてから正直に私の戸惑いを話すと客先の事務所は笑いに包まれた。

「もう、〇〇さんたらぁ。あいかわらず面白い人ですねぇ」
と。

私が日頃よくふざけるので、
『冗談でやった!』と思ったらしい。(思ってくれたらしい)

この世に、そういう冗談があるの?

(このお題、完)

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2019年01月16日

お盆の迷子風物詩 (山と田園風景の広がる妻の実家あたりで、方向音痴の私は帰宅困難者に…)

お盆の迷子風物詩

お盆に妻の実家へ、初めて車で帰省したときのことである。
(これもナビや携帯電話のない時代のことです)

首都高、常磐道、磐越東線と地図を見るまでもない主要道路を使っての帰郷であるし、高速出口を降りてからは妻の地元であるから、妻がナビゲートする。
方向音痴の私でも、妻の里には問題なく帰郷できるのである。

その妻の実家は福島の阿武隈山系にある大自然の残る田舎にあり、春に私は土筆を採取して食べたりして、実家の人々を驚かせていた。そのあたりでは、土筆は食べないらしい。

そのときはお盆であった。
夕方前、妻が高校時代の友人に会いに行くから車で送れと言う。

「私はいろいろ話したいし泊まるかもしれないし、泊まらなくても車で送ってもらうから、あなたは私を降ろしたら、そのまま先に家に帰ってて」
ということだった。

行く時に、遠回りでもわかりやすい市道や町道を通ればよかったのだが、そこは妻の幼少期からの庭のような地域である。
妻の指示で、なにやらわけのわからぬ細いクネクネした農道を通り、田んぼや用水路に落ちそうになりながら、妻の友達の家に着いた。
「じゃあね。帰れる?まあ来た道をそのまま戻るだけだから」
と妻は友人宅に消えた。

「そのまま…?」

おそらく妻にとっては暗闇の中であっても、懐中電灯で道さえ照らせば、さらさらと帰れる道なのであろう。
しかし、私にとっては初体験の迷路でしかない。

とはいえまだ日も高かったし、距離も数キロのことである。どうやったって帰れるだろう、と私は自分を信じた。(いつものように誤信した)

戻り道の途中までは、さすがに私も地形や道順を覚えており問題なかった。
「そう、ここここ。ここ通ったぞ」
とか言いながら…。

が、気がつくと数時間が経過し、あたりは暗闇となり、私は見知らぬ山中を走っていた。
対向車さえ来ない。

「ここはどこだろう?」
よくある、私の緊急事態である。

山中とはいえ、ところどころに地名を書いた標識などはある。
私は車を止め、地図を出す。

「ややや、実家から10数キロ離れている…。いつのまに…」
この程度のことで私はあわてはしない。いつものことだからだ。
とはいえ、これでは帰れない。

地図を確認(実際は誤認)し、
「おそらくオレはこのあたりのこの道路を、この方向に向いて走っている(のだろう)」
と(すごく誤った)見当をつけて、また走り出す。

だいたいは、そういう見当そのものが間違っているので、いつまでたっても目的地には近づかない。
山中に民家はない。
が、走り続けているうちに灯りが見えるときもある。たいがいが飲料の自販機である。

人家がないのに自販機がある。
それは私には日本という国のある側面についての新しい発見だったが、残念なことに、そのことは、とりあえず帰宅には何の役にも立たない。

人家も全くないわけではいが、暗闇に沈んでいる見知らぬ家である。
この夜に玄関をノックし訪ねて道を聞くという気も起こらない。
(本当は訊くのが正解だが…)

数時間走り回っているうちに夜も9時近くになってしまった。すでに5時間以上走り回っている。異常である。異常であるとわかっているがどうしようもない。
私は、そういう人なのだ。(と開き直るのみ)

ぐるぐる、当てもなくさまよっていると、前方にひどく明るい家が見えた。近づくと商店である。
その商店は盆だからか、夜も遅いのに、まだ営業しているようで戸口を開けており、人影も見える。

これなら道を訊きやすい。
というか、もはや遭難しないためには、ここで道を訊くしかなかろう。

私は車を降り、その店に入った。
一人の中年女性が、奥のほうに座っていた。

「あのう、すみません。道に迷ってしまって」
「あ~ら、たいへんだこと。どこさ~帰んだい?」
「ここがどこかわからないのでご存知じゃないかもしれませんが・・・」
と、私は妻の実家の地区名と苗字を言った。

「ありゃ~!あんた、あそこのぉ?」
「はい、そこの長女のダンナです」
「ええ?○○○ちゃんちの?こりゃたまげた。お~い」
と、その中年女性は家の奥に声をかけて誰かを呼んだ。

すると、ずらずらと数人が出てきた。

「ほら、この人、○○○ちゃんのダンナだって。ほらぁ、あいさつしてぇ」
「○○○ちゃんの同級生の◇◇◇です」
「その弟です」
「その下の弟です」

なんだ、これは!?

あとでよく聞くと、その商店は妻の同級生の家だったとわかるのだが、そのとき私は妙な成り行きにあっけにとられていた。
それでも、
「はじめまして。私がダンナです」
などと言って、初めて会った人たちと挨拶をかわした。

妻の実家は、その商店のある山の反対側にあることがわかったのだが、私がまた道に迷ってはいけないということで、妻の実家に電話をかけてくださり、妻と義兄が車で私を来た。

「帰ってこないと思って心配してたら、ここでなにしてんの?」
と妻があきれ返っていた。
そんなこと言われても・・・である。

私は義兄の車の後ろについて実家まで戻った。
ほんの5分の距離だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
後日談がある。

私は翌年のお盆にも、妻の実家に帰省をした。
そして一人で車に乗って買物に出かけて、また道に迷った。

そのときも5時間くらいぐるぐる迷っていたが、前年より事態が悪かったのは真っ暗の山中で燃料切れランプが点灯してしまったことだった。

「もはやこれまで。今回は山中の車中泊だ。明るくなったら車も通るだろう」
と覚悟した。
「でもまあ、走れるところまでもう少し走ってみよう」

(思い出しながらこの文を書いていて、自分が本当に変なんじゃないかと真剣に心配になった。私は毎年、いったい何をしているのだろう?)

半ば以上やけくそで走っていると、暗闇の中にひときわ明るい場所があった。
近づくと小さな商店である。

(ここですでに気がついた読者もおられようが話を続ける。私は本当にまったく気がついていなかった)

「おお、助かった。店があった」
私は車を降り、店に入った。

「あらぁ~!」
「げっ!」
「おっどろいたぁ~。なんだべぇ~、今年もまた来たのかい~?」

デジャヴ…。
2年続けて迷子になり、同じ店に…。

2年連続で迷子(私)を迎えに来た妻の実家では、もはや伝説…。

(このお題、完)

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2019年01月17日

ロサンゼンルスの迷子 [1](ゲーム開発者だった私はラスベガスの国際ゲームショーの視察旅行に…)

ロサンゼンルスの迷子(1)

私は、夜のロサンゼルス空港で私と黒人男性が握手している写真を見ている。
彼はロサンゼルスのダウンタウンで迷子になった私を空港まで届けてくれたタクシー運転手さんである。


この話は『方向音痴』というより『見知らぬ土地で迷った』という話なのだが、それを書いてみよう。

これもかなり昔の話で、ファミコンのゲーム開発をしていた頃、ラスベガスで開催された『国際ゲームショー(ゲーム関連の展示会)』(正式名称は忘れた)に視察に行ったときのことである。

その国際ゲーム展示会はとても大規模で、複数の広い会場で開催されていた。
世界のテレビゲーム界は日本が席巻しはじめた時代であったので、任天堂を筆頭に日本のゲーム開発会社が主役の催し物だったように記憶している。


そのとき在籍(ゲーム単位の任意契約だが、社内外的に社員扱いされていた)していた会社が視察旅行を計画していて、社長が、
「お前は連れて行ってやる」
と言うし、
「もちろん、オレも」
と名乗りを上げたのであるが、正直なことを言うと私はコンピュータゲームが特別好きなわけではなかたったし、この社長も好きではなかったので(悪い人ではないが、色々あってウマが合わなかった)、この展示会旅行にそんなに興味もなく、ほとんど何も覚えていない。

もちろん、ゲーム開発を仕事にしていたしゲーム開発そのものは面白いし嫌いではなかったから、楽しく見物はしたはずである。

ただ、そのほかの経験のほうが、より鮮明に記憶に残っていて、その一つがロサンゼルスでの迷子事件なのである。

こその視察旅行は、会社の社長、主任プログラマー、私の3人に、社長の友人であるK氏(六本木などで夜のお店を数店経営している若手実業家さん)を加えた4人連れであった。

K氏はゲーム業界には関係ないし関心もない人であったことからわかるように、この小旅行は『ゲーム業界の視察』を兼ねた慰安旅行ないし、任天堂のバレーボールで会社が成功したためのご褒美旅行でもあった。
(私が原作となるゲームを作り、主任プログラマー氏がファミコン版の開発を担当した)

なんといっても、場所がラスベガスだし、楽しそうである。

任天堂との契約で会社はかなり儲かっていたはずだが、旅費を浮かすために往復の飛行機は両方とも夜の便で機内泊であった。詳細はよく覚えていないが、成田の夜の便に乗り、到着した日はロスで1泊。翌日からラスベガスで展示会を視察して2泊。そして最後の日にロスに移動して夜遅くの便で帰る、というスケジュールだったように思う。

展示会のほかは、夜のロス市内漫遊とか、グランドキャニオン見物とか、ベガスのカジノで(K氏以外はこじんまりと)遊ぶというものである。

この小旅行ではいろいろあったのだが、ここはでは『迷子の話』だけをする。

最終日にラスベガスからロスに移動したとき、すでに時刻はお昼くらいになっていたが、夜の便までにかなり時間(8時間以上)があった。
そこで海岸のほうに行って昼食に蟹だったか海老だったかを食べて、そのあと観光船に乗ってみよう、などということになっていた。

だが、私は単独行動がしたかった。社長と少しケンカしていたのだ。
今考えるとムチャでとても自分勝手な行動なのだが、私は誰にも何も言わず、目に付いたバス停から路線バスに乗ったのである。

(私の昔の話が大体そうであるように、そのときもスマホどころか携帯電話さえなかった。何も言わずにバスなどで別行動をすれば、もう連絡などはできないのだ)

私は別行動をしたかっただけで、どこに行きたいとかどこを見たいとかいうことはなかった。ただ一人になりたかった。

そこで4人でぶらぶら歩いているときに見つけたバスの行く先を見て、ダウンダウン方面に行くことがわかったので、深い考えもなくそのバスに乗ったのだ。

小さな目的はあった。行きたいというほどでもなかったが、観光ガイドなどを読んでいたので、『リトル・トーキョー』でも見ようかと思ってはいた。
バスに乗った私は運転手さんに、
「リトルトーキョーあたりに行くか?」
と訊いた。

彼が首を傾げたので、もう一度ゆっくり言った。
すると彼が、
「その近くには行く」
と答えたので、
「その停留所で声をかけてほしい」
とお願いして彼の運転席のすぐ後ろに座った。

30分程度かそれ以上くらい経過した頃、運転手が「ここだ」というところで下車したが、方向音痴の私である。
そのうえ、外国である。

降りた瞬間、私の中の地軸が逆回転し、目の前の空間が曲がり、私の身体感覚として、自分がどこにいるのか、もうなにがなんだかわからなくなった。(いつものこと)

(つづく)

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2019年01月18日

ロサンゼンルスの迷子 [2]

ロサンゼンルスの迷子(2)

バスを降りて、私は買っておいたロス市内の地図を広げた。そして周囲の標識などの地名を見る。
地図と標識の名称を見比べて、一致するものを探す。

ところが、なんと一致する地名が地図上にない。あるのかもしれないが、どうやっても見つからない。

「さっきバスの中から、ドジャーズスタジアムと書いた標識を見たような気がしたが…」
と思ったりするが、スタジアムのすぐ横を通過したのか、数キロ離れたところを走っていたのかは不明である。そもそもバスの進行方向がどちらからどちらに向かっていたのかも見当さえつかない。

見ている地図が、自分のいる地区と無関係なのかもしれない。
ようするに、辺りは日常風景だが、私の頭の中は五里霧中であった。

ここは、どこ?

バスを降りたときに、私は自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなっていた。
リトル・トーキョーどころではない。

しかし私は能天気であった。
そのとき飛行機の時間までは、まだ5時間以上あった。時刻は4時くらいで日も高い。
せっかくなので、自分がどこにいるかわからないにせよ、まずは散策を楽しむことにした。

そのうち居場所もわかるだろうし、いざとなれば大通りをいくらでも走っているタクシーを呼び止めて、
「エアポート!」と言えばいいだけなのだ。(たぶん…)

「黙って姿を消したから、みんな心配しているだろうなあ。でもまあいいや」
と私は気にもしなかった。気にはしたが、携帯もない時代なので、どうすることもできないのだし、である。

私はストリートにある店でジュースを買ったりスナックを買ったりして、歩きながらパクパク食べた。そして、パシャパシャと写真を撮った。カメラはコンパクトタイプのものを首から下げていた。

少々気になっていたのは、ときどき交差点に警官やパトカーがいることだった。
特に事件が発生して警戒しているようでもなく、街は日常的なのんびりした様子だったので、私はそれについては気にはしなかった。

アメリカだからな…。
とか、思っただけであった。

とはいえ、私が歩き回っているのは、見知らぬ外国の街の下町である。
私は6車線ある大通りに面した歩道を歩き、横道には決して入らなかった。表通りには人も多く、歩きにくいくらいだった。
大通りには車も多く渋滞気味で、路線バスもタクシーも次々に現れる。走っている車や歩いている人間の密度は銀座なんかと変わらない感じだった。

ところがである。
数時間ブラブラと歩いていて、ふと気づくと思っていたより急に日が暮れ始めたのである。
おそらく時刻と日没の関係が日本にいたときと違っているのだった。
そして日が傾いてくると、嘘のように人も車も少なくなってなってしまった。
どうやら、先ほどまでが早めの帰宅クラッシュだったようだ。

私はそのときも、まだ自分がどこにいるのかはわかっていなかった。
確実なのはロサンゼルスのダウンタウンのどこかにいる、ことだけである。

「あれ、日が沈んでる?」
と思ったときには、バスもタクシーも一般車も、大通りから消えてしまっていた。魔術のようだった。

そして、どうやら私が数時間、あてもなく歩き回っているうちに、ヤバい地区に来たようであった。

問題は、あてにしていたタクシーが見事に一台も走っていないことだった。
いや、一般車さえチラホラになっているのだ。
私は大きな交差点でしばらく立って待ってみたが、タクシーが通る気配さえなくなっていた。

「これは、マズイのじゃないか…」

そりゃ、まずいだろう。自分がどこにいるかもわからず、誰にも行く先を告げておらず、あたりに公共の乗り物がない。
その上、周囲はだんだんと暗くなってくる。

ふと気づくと、まわりは全部スペイン語である。
建物もなにやら古びた界隈になっていた。

そのうえ、酒に酔っているのか麻薬でラリッているのか、ふらふらと目が虚ろな人間があちこにいたりするようになった。
横道や裏道ではなく、片側3車線はある大通りの歩道でのことなのである。

時計を見ると6時くらいであった。街の様子が面白くて、2時間くらいぶらぶらしていたようである。しかし今や、何も面白くない…し、なんか怖いぞ!

飛行機はたぶん9時ころ離陸である。搭乗券は社長が持っている。遅くとも8時過ぎには空港に着かねばならないだろう。2時間しかない。
ダウンタウンから空港までは40~50分くらいだろうか。高速道路だともっと早くいけるのか?

いやいや、それよりも、空港まで何に乗るのだ?

少し歩いて移動してみても、表通りなのにバスもタクシーも通らない。
先ほどまでところどころにいたパトカーでもいれば、お願いしてタクシーのいるところまで連れて行ってもらおう、と思うが、そのパトカーも一台もいない。

道路は深夜0時みたいな閑散さだった。

店はあちこちにある。でも妖しげだ。
街の雰囲気が北米ではなく、(行ったことはないけど)南米の香りである。
どうにも、そういう店に入って何か訊く気になれない。
そもそも英語が通じるのか?

「おおいに、まずいぞ!」
私はかなり切羽詰まった気持ちになり、半ば途方にくれた。
ともかく、帰りの飛行機まで、残された時間も少ない。

「治安の悪い地区に迷い込み、襲われた日本人観光客!」
というような、ありきたりだがそれが自分なら怖い!という新聞記事が頭に浮かんだ。

私は大丈夫なのか?日本に無事、帰れるのか?

(つづく)

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2019年01月19日

ロサンゼンルスの迷子 [3]

ロサンゼンルスの迷子(3)

ちょっと落ち着いてグルリと周囲を見渡すと、立ち並ぶ建物の間から『Holiday Inn』の緑のサイン(電光看板)が見えた。
砂漠の中のオアシスとか言うけれど、私にとってそれは『夕暮れの異国の空に浮かぶ避難所』であった。

「あそこなら15分くらいで行けそうだ。そうだ、ホテルなら大丈夫だ。タクシーだってあるはず」
と私は考えた。

飛行機の時間の心配があったので時短が必要だ。
私は大通りを直角に進むようなことをせず、その緑のサインに向かってできるだけ直線距離で歩くことにした。
そのためには、横道や裏道、そういうものを通らねばならない。

あたりは薄暗くなり裏通りには街灯もまばらで、スペイン語だらけの古いさびれた街並みが続く。外を歩いている人は多くないし、彼らのその服装は綺麗ではない。

私はたいしてよい服装ではなかったが、黒いズボンに白いシワのないシャツ、そしてサスパンダー。首からはコンパクトカメラを下げている。それに東洋人。街では浮いている。
明らかに『よそ者』であるし、『カモ』に見えるかもしれない。

ある通りを曲がると進行方向の歩道に5人ほどの若者がたむろしていた。手にはバットとか鉄パイプみたいなものを持っている。なにもされないだろうけど、
「おいおい」
である。

私は何気ない風を装って(実際はかなりわざとらしく見えただろうが)、道路を渡り反対側の歩道に行った。そして演技で何気ない様子をしながら、彼らの視線を感じつつ歩いた。
私は決して彼らのほうを見なかったから、私の感じたのは雰囲気(私の勝手な感じ方)である。

そこを無事に抜けて、「ふぅ~」と止めていた息を吐くと、左側のレンガの建物の窓から誰か覗いているのに気づいた。酒場らしかった。
私は、
「オレは東洋人で、ちょっと小奇麗な服装をしているが、もう何年もこのあたりに住んでいる写真家みたいな芸術家である」(空想)
というふうに自分で自分に言い聞かせた。

「だから、このへんは庭みたいなもので、実はキミたちとも交流がある。歩いているのは慣れた帰り道で、何もなんともないぞ!」(空想)
というような『一人芝居』をしながら歩いた。
心臓がドキドキしていた。

「黙ってみんなから離れ手別行動したから、やっぱ罰が当たったなぁ」
とか考えながら、ビビりつつも、あえて大股でゆっくりゆっくりと歩いた。

15分と思ったが、実際は30分以上かかって『Holiday Inn』の緑のサイン下までたどり着くことができた。あたりはすっかり暗くなっていた。
その暗い空間に沈むように、そのこじんまりとしたホテルはあった。

そのとき時刻は7時くらいだった。
ここでタクシーに乗れれば、なんとか9時発の飛行機に間に合いそうだった。

「よかったぁ~」
私は安堵のあまり泣きそうであった。怖かったぁ。

鉄筋コンクリートのしっかりした建造物のホテルはホテルだが、内装は簡易な感じであった。そしてフロントに若い白人女性が一人いるだけだった。

私はフロントの前に立ち、
「タクシーを呼んで欲しい」
と彼女に丁寧に頼んだ。

私の英語がわかりにくいにせよ、数メートルのところに彼女は座っているである。こちらに顔を向けてもよさそうなものなのに、雑誌を読んでいる姿勢のまま動きもしなかった。

もう一度、声をかけたが同じである。無視である。

私はむっとしたが我慢して、1ドル札を出して、もう一度同じことを言った。すると彼女は顔をこちらに向け、
「わかった」
というような表情をした。そして無線機か何かで何かつぶやいた。

それから横の扉を指差した。
どうやら、その扉の向こうにタクシーの駐車場でもあるようであった。

私は彼女の態度が気に入らなかったが、彼女がいたからタクシーにも乗れるのだと思いなおし礼を言って扉に向かった。
私が扉の前まで行ったとき、外から扉を開けて30歳くらいの黒人男性が入ってきた。

それがタクシードライバーのグレゴリー君だった。
(以下親愛の意味もありグレゴリーとし敬称を略す)

私は彼にロサンゼルス空港までどのくらいかかるか、まず尋ねた。高速道に乗れば、30~40分というので、私は安心した。

これで日本に帰れる。

(つづく)

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2019年01月20日

ロサンゼンルスの迷子 [4]

ロサンゼンルスの迷子(4)

タクシーが走り出してから、ラスベガスでゲーム展示会を観るため日本から来たこと、今日は道に迷ったこと、途方にくれたことなどを彼に話した。
グレゴリーがとても親切で明るくて、彼からしきりに私に話しかけて質問してくれたから、それに答えたのである。

彼の英語は、私にはわかりやすかった。
それもそのはずで彼は英語ネイティブではなく、5年位前にナイジェリアから来たということだった。

「妹はサンタモニカにいる」
と彼は高速道路の地名標識を指して言った。
「ほら、あっちさ」

道路は空いている。順調である。
そう思えたので、私の口も軽くなった。

いろいろ話しているうち、私はあることに気づいた。
フロントガラスの助手席側の隅に丸い穴があき、ひび割れが走っている。どう見ても、映画などで見る『弾痕』である。
それにしてもそれを放置していていいのか?フロントガラスが割れないのか?

「あれは拳銃で撃ったような穴に見えるけど…」
と私は訊いた。グレゴリーは頭を振りながら苦笑いをして、
「2週間前に強盗に襲われた」
と答えた。

「強盗?」
「そうさ。ちょうど同じこの道路で日本人3人を乗せていたんだ。前に車が割り込んできたと思ったら急にブレークをかけて止まるんだ。で、横にも車がいたんだ。だからオレも止まるしかない。そしたら横にいた車もオレの車の後ろにピタリと停車した。そして何人か降りてきて、一人がいきなり外から撃ったんだ」

「え!この道」
「ああ、日本人は身包みはがされた。怪我がなくてよかったよ」
おいおいおい…。

「怖いなあ」
「ほんと、怖かったよ」
「それでも、まだタクシードライバーしてるの?」
「学費を稼がなくちゃいけないからね」
「そうなんだ…」

そんな話をしているうちに、車は無事空港に着いた。
私は、どうしても彼の写真が撮りたかった。私がカメラを出して構えていると、そこに黒人の女性が通りかかった。彼女は、状況を察したようで、
「私が撮ってあげるから、二人そこに並びなさい」
と言ってくれた。 その写真が、この旅行で一番の思い出写真となった。

<エピローグ>
私は空港内で社長たちを探した。
夜遅くフライする便は少ないから人も少ない。彼らも私をある意味私以上に血眼になって探していたので、すぐ合流することができた。
もちろん社長はカンカンであった。

「何も言わずに消えるとはなんだ。心配するだろ。俺たちまで帰れなくなるじゃないか!」
その通りであった。私が全面的に悪い。いかに社長とケンカしていてもだ。
私は社長に対してだけはブスっとした態度は保ちつつも、最大限にみんなに謝った。

K氏が、
「まあまあまあ、冒険したかったんだろ?」
と茶化してくれて、社長の怒りも何とかおさまった。

それから十数時間後、私たちは早朝の成田空港に着いた。
格安便を使ったので、すごい早朝に着く。手荷物検査場に他の便の乗客はいなかった。
係員が手ぐすね引いて待ち構えている。

そこで我々4人は、『禁制品』を発見されヒドイ目に遭う(…まあ自業自得)のだが、その話は、お次で。

【成田空港での取り調べ】へ

(このお題、完)

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2019年01月21日

成田空港の密輸団 [1] (ラスベガスでのゲームショー視察から成田に帰国した我々は一人一人取調室に入れられ…)

成田空港の密輸団(1)

若いころ、ファミコンやゲームボーイやプレイステーションのゲーム開発をしていたことは、このサイトのあちこちで触れている。

ラスベガスで開催された『国際ゲームショー(ゲーム関連の展示会)』(正式名称は忘れた)に視察に行ったときの話は、【ロサンゼンルスの迷子】 に書いた。

そちらの記述が重複するが、その視察旅行は私が在籍していた会社の社長、主任プログラマー、私の3人に、社長の友人であるK氏(六本木などで夜のお店を数店経営している若手実業家さん。ゲーム業界には関係ないし関心もない人だが、訪問先がラスベガスということで観光として同行)を加えた4人連れであった。

社長が、私と主任プログラマー氏の二人だけを連れて行ったのは、私は任天堂バレーボールの原作者でアドバイザーであり、種にプログラマー氏が、任天堂バレーボールのプログラマーであったからで、『ご褒美』であった。

その当時のゲーム業界は超バブリーであり、会社はかなり儲けていたはずだが、社長がケチって往復とも格安便を使った。
格安航空便は、早朝や深夜などの時刻に離発着することが多いのか、そのときのロスから成田に帰る便は、ロス空港を夜11時ころ離陸し、成田に早朝6時ころ着くというスケジュールだった。

今はどうか知らないのだが、出発したロス空港も、到着した成田空港も、その時刻には空港に人も少なく閑散としていた。

飛行機が成田に着くと滑走路はガランとしており、帰国者用の広い手荷物検査所には我々の乗った便の乗客しかいなかった。

これが、忘れることのできない【悲喜劇】の始まりであった。
(う~ん、今思い出しても、複雑な心境だぞ!)

早朝の成田空港の到着便手荷物検査場では、2つのレーンでのみ手荷物検査が行われていた、10数車線のある自動車道路の2つだけ通行可という感じだった。

混雑する時期でもなく、平日でもあり、到着時刻も朝6時だったためか、そもそも到着便の乗客が少なかった。
手荷物検査官は、手ぐすね引いている…というか、検査場が混雑していないので、怪しいと思えばじっくり調べられるわけである。

我々の前には家族連れがいて、荷も多かったが彼らの荷物検査はすぐ終わった。
鞄を開けるということもなく、ほぼ素通りなのであった。
それを見ていた我々もそういうものだと思って安心していた。

しかし手荷物検査官は、我々が検査場に姿を現していた、その時から、
「こいつら、怪しい」
と思っていたのだった。たぶん。

まず、K氏(六本木などで夜のお店を数店経営している若手実業家)の風体が、『いかにも』いかがわしそうな?水商売ないし、裏社会的であった。

流行の高級スーツを着、かっこいいサングラスをし、手首には光物がわんさか、である。
その態度も、どうにも【ワルげ】に見える。(たぶん、ワザとそう見えるようにしているのだろうし…)

うちの 社長は真面目なビジネスマン風だが、なにやら人間の雰囲気にウサンクサイところがチラホラする感じがないこともない。そういうものは隠し切れないのだ。

プログラマーのH氏だけは、普通にまともな雰囲気であったが、私がこれまた【いけない子】の雰囲気であった。
私は、マルイのカードでで買った黒っぽいデザイナーズ的なカジュアルスーツに、むさい無精ひげ。
そのうえ、ヘラヘラと笑いながら手荷物検査場に入るなり、ほぼ無人の広い室内でパチパチ写真を撮って、はしゃいでいた。

H氏の除いて、どうも『いけない方々な感じ』だったのか?

係員は、
「なんだ、こいつら」
と、我々を不審者集団とみなして最初から警戒したのも仕方ないかもしれない。
(もちろん、ただの真面目な市民なんだが…)

我々の前の家族連れが、大きな荷物を数個持っていたのに、まったく検査らしきこともされず通過したあと、まずK氏の検査となった。

我々も当然、素通り!
と思っていたのに、いきなり、
「鞄を開けなさい」
と、検査官が低く冷たい声で言った。

「え?」
と私は思ったものの、
「まあ全員をまったく調べないというわけにもいかないだろうからなぁ。調べるのが仕事なんだし」
くらいに軽い気持ちでそれを見ていた。

K氏は、
「なんだ?」
というような態度を見せたが、躊躇もぜず自分の大きなキャリーバッグを台の上で開けた。

「おおおぉ~!」
実際にはそういう音声は、その場の誰からも発せられなかったが、誰もが心の中でそういう自分の【驚愕に似た声】を聴いたに違いない。

そして、我々を迎えて厳しくなっていた検査官の目つきが、より険悪になった。

カバンの中には、【本場物の裏もの】大量のポルノ雑誌とポルノビデオがぎっしり詰まっていたのだ。

インターネットが一般化した現在、【ポルノの本場】とか【裏ものの本物】とかいう言葉は死語となった。
日本では表向きはまだ【本物のポルノ】は禁制だろうが、ネットを取り締まれるわけもなく、ほぼフリーパスということになっている。

よほど犯罪めいた内容でない限り、ネットポルノも、
「まあしかたなかろう」
ということだろう。
海外にサーバーがあれば、取り締まるなんてできないのだし。

が、当時(1990年頃)は、そうではなかった。
まだ、暴力団などの資金源に成りうるポルノを警察等の公的機関が、きっちり取り締まっていたんである。

もっと重要なことは、ポルノなどに付随して持ち込まれる、もっと『イケナイもの(麻薬なや銃など)』の取り締まりがメインだったのだろうが、ともかくポルノもダメなのであった。 (いまでも、一応ダメだろうが…)

もちろん我々には、『ポルノはダメ』という意識は当然あった。
「いいじゃん、それくらい」
という気持ちのほうが大きかっただけである。

さて、K氏のキャリーバッグの中は、ポルノ本、ポルノビデオが満載。
たぶん全部で百点とそれ以上の多数とか…。

そしてK氏は、れっきとした複数のカッコイイ【バー経営者】であり、意地悪く偏見の目で見れば【裏社会に友達がいても驚かない】みたいな風体なので、これは、すご~くすご~くマズいことになりそうであった。
(実際、そうなった…)

検査官の目が光り、我々一行を睨みつけた。
「別室に行っていただきます」
「別室?」
別室って、なんだよ?

現場からの連絡を受けたらしく、どこからか多くの係員がやってきて我々を取り囲んだ。
我々4人は、有無を言わさず任意連行?され、一人ひとり6畳くらいの隣り合わせた個室に入れられた。
部屋はコンクリートむき出しの無機質なもので、粗末なテーブルとパイプ椅子があるだけであった。

「なんか、この部屋、恐いんですけど…」

見た目と(だいぶ)違い、小心で真面目な小市民でしかない私は、灰色の壁の部屋の中にポツンと座らされて、神妙な顔で、誰か(取調員)が来るのを待っていた。

(つづく)

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2019年01月22日

成田空港の密輸団 [2]

成田空港の密輸団(2)

そのそも、こんな【恥ずかしい話(ポルノ持ち込みで取り調べ)】を、自分のサイトの実話エッセイに書くつもりなの?と、書く前に思案しなかったわけではない。

けれど、取り調べは警察ではなく手荷物検査員によるものだし、妙な始末書みたいなものを書かされたが、形式的な注意(江戸時代でいえば『畏れ入れいぃ!』)だけであり、正式な罰則を受けたわけでもなかったので、(恥ずかしいから逆に)胸を張って、この経験を語っておくべきだと思ったわけである。

前述したが、この後で語る取り調べ中で説明を受けて知ったのだが、その取り調べの本当の目的はポルノなどではなく【薬物や拳銃の密輸】だったようなのだ。

事の発端は、K氏のポルノの持ち込み数量が極めて多数だったため、
「ちょっと、これは見逃せないないでしょ」
と判断されたということなのだろうが、ポルノを大量に持ち込もうとする人間は、ほかの物も…ということらしかった。

さて、連行された個室で待っていると、係官が来た。

「何をしたかわかってるんですか。犯罪ですよ!」
と、いきなり、いかにも私が重大犯罪人であるように扱ってきた。
そういう【やり方】が【マニュアル】なのだろうけど…そういうのは、どうなんだろ。
善良で小心な一市民に対して、そういう脅しはいただけないぞ。

「たかがエッチな本とビデオじゃないか。おまえだって見るだろう。ん?没収したら、それはどうなるんだ?絶対に見ないで廃棄するのか?いや、絶対こいつら見るだろ。う~ん、許せん!」

そう心中では毒づいていたが、私は(見た目と違い)小心な小市民であるから、しおらしく、
「はい、すみません」
と、言っておいた。

(情けないぞ!反抗しろ!といっても政治犯などなら何となく主張もありそうで少しはカッコいいが、エッチ雑誌とビデオの摘発で反抗するのもなぁ)

そもそも、K氏はともかく、私が鞄に入れておいたのは、ラスベガスの街で買った雑誌2冊とビデオ2本だけであった。
どれにしようかな?と、かなり迷ってやっと買ったのに、あえなく没収されるとは…。

社長とプログラマーH氏も、持ち込みポルノはそのくらいの数量であった。
K氏に比べれば、マフィアと高校の番長くらいの違いがあるはず!

「それにしても、買っていたのは知っていたが、K氏はあんなに大量に購入していたのか。びっくりだ。金があるのだろうし、そういうものをお土産に渡す交友関係も多いのだろう」
などと、私が考えながら始末書みたいなものに記入してしていると、隣の部屋からものすごい怒鳴り声が…。

それは、K氏であった。

「なんだとぉ!おめーら、えらそうに何言ってるんだぁ!お前ら、こういうもの見ないのか?没収したらチラリとも見ないで焼くのか?みんなで分けるんだろ?えぇ!!」

「う~ん、いいぞ。もっと言え!正論?だ。何が取り調べだ!あんたらは聖人君主かよぉ!」
と、内心で私は喝采したものの、もっと違う思いもあった。

「おお、こりゃマズイぞ。Kさん、おとなしくしてくれ。どうせ持ち込んだものは没収されるし、早く解放されて、この場を去ろう。やはり法は犯している?らしいし…」

しかし、隣室のK氏の怒りのボルテージは上がる一方のようであった。
怒声は大きくなり、ドンドンと机をこぶしで叩いているのか、足で蹴っているのか、すごい音も聞こえてくるぞ!

これは、タイホになっちゃうんじゃないか?
警察官相手でなくとも、公務執行妨害とかで。

取調官の声が聞こえないのだが、なにかK氏の癇に障ることを、いっぱい言っているのだろうなぁ。ねちねちと。私も目の前の男に、いろいろ言われているし…。

そのうち隣室では、K氏だけでなく取調官まで怒鳴り始めた。
う~ん、すごくマズイぞ!
(少し面白いが、私も当事者なんだし、やっぱマスイぞ。どうか穏便に…)

そのうち、
「取っ組み合いをしているのか?」
というような物音までし始めた。

う~ん。取り調べという立場を利用して、いろいろイチャモンをつけられて、ブチギレたのかな、Kさん?
もういいや、こいつら気に入らないし、もうやったれ!
…と思わないこともないんだが…。

いやいや、Kさん。ここは堪えてくれ、耐えてくれ。これ以上の面倒はホントにマズイぞ。ポルノじゃなく傷害事件になるぞ…とも思うし。

しばらくすると隣室も静かになった。ついにK氏も、諦めたらしい。

私は(他の人もそういうことをされたと思うが訊かなかった)、壁に手をつかされ、ズボンとパンツを下げられて股間に手を入れられた。

「何をするんだよぉ!こいつらのほうが、ヤバイじゃん」
と思いはしたが、小心者の私は、されるがままにされていた。

麻薬の袋を股間に貼って隠していないか探したのだろうが、なにやら性的虐待だぞ!
(今でも、取り調べの時、こういうことするのかな?)

(つづく)

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2019年01月22日

成田空港の密輸団 [3]

成田空港の密輸団(3)

取り調べは、部屋での1vs1の聴取だけではない。
以下は取調官が説明してくれたことである。

我々が撮影したフィルムとカメラはいったん全部没収されて、1時間かけて何が撮影されているか徹底的に調べられた。
そこにポルノ映像があるかないかだけでなく、犯罪がらみの映像や画像がないか調べたそうである。

荷物も全部徹底的に調べられた。
たとえば、ハンドクリームのチューブなども、中に麻薬や銃弾などが隠されていないかということで、全部開けられた。

購入したビデオテープはそれがポルノだからということだけではなく、その中に分解した銃を隠して密輸していないかということで解体された。
(X線とか探知機とか、また未整備だったのだろうか?)

そういうふうにあれこれ調べられ、なんか、いっぱしの犯罪者(ギャング)扱いである。
(実態は、善良な小市民)

K氏が少し(…かなり)抵抗したので、我々の取調は詳細に時間をかけて行われることになったらしい。
(通常検査がどういうものか知らないので、私の勝手な想像だが…)

とはいえ、我々はただの小市民だから、(K氏だって、ただ購入物量が通常より多かっただけで、交友関係が広いとお土産が多くなるというだけ?)、何も犯罪に関係する者が見つかるわけがない。
なんというか、『お仕置き』みたいな感じであった。

最後に非公式な始末書に、いろいろ書かされ、拇印を押さされた。
「今回は単なる注意ということで、特に何もありません」
ということであった。

我々は早朝に成田に着いたが、解放されたのは10時すぎで、車で都心に戻ったのは昼すぎであった。

ゲーム視察旅行団の解散前に、我々はファミレスで昼食兼視察総括会をした。

本来は、『今後のゲーム開発において、今回のゲーム展示会の視察をどう生かすか』というようなことがテーマになるはずであったが、もともと慰安旅行というのが趣旨なので、その時もその後も、そのような前向きで建設的な意見交換はしなかった。

そのとき我々の気持ちの中にモヤッているのは、手荷物検査官たちの横柄な態度とポルノ品の全没収に対する憤りであった。
(小市民かつ俗人) 我々は食事後の小一時間、熱く語り合った。そのころ私と社長はひどく不仲だったが、そのときは同志のようであった。

「あいつらに、あんなことする権利はない!」
(職務柄、ないこともない)

「法律(みたい)だから仕方ないけど、あの扱いは何だ!(」
たしかにそうだが、K氏がだいぶ荒れたからなぁ)

「没収されたものは、どうなるんだ!」
(私物化?)

「次回は見つからないように、偽ラジカセを作って中に隠す工夫を…」
(前向きだが、筋違いな姿勢…)

「いや、鞄そのものに精巧な隠し袋を作って…」
(前向きだが、そういうエネルギーはゲーム開発のほうに…)

そこで相談されている内容は、隠して持ち帰るものがエッチな本やビデオということで犯罪性は低いが、人間性も低い会話であった。

人間性の低い会話を繰り返し、怒りが鎮まってくると、我々はそういう会話が無意味に思えてきた。
すでに、エッチなあれこれは、すべて失ったのだ。

しかし人生と生活は、これからも続く。
前向きに生きなくては!

みんなが鬱憤を吐き出し尽くし無口になったところで総括会は終了した。
それ以後、この話はこのメンバーの誰ともしたことはない。
私がその社長とますます不仲となり、その会社を離れたということもあるが、どうにも【エッチな雑誌やビデオ密輸入?であんなツマラナイ目に遭ったこと】が、どうにも【情けない】体験に思えたからである。
(たぶん、みんな)

もはや世間では、こういう【物悲しい】事件は激減したであろう。
そういう意味でも、インターネット社会は【革命】なのだ、たぶん…。

そういう社会学的な視点を提示して、このテーマを終わろうと思う。
そうでもしないと、内容が低俗すぎる…?

(このお題、完))

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2019年01月22日

鳳凰三山で尻干し (私の大学時代の友人Mは、ちょっと変わった男で…)

鳳凰三山で尻干し

学生時代のこと。

仲の良かった大学のクラスメートのMが、ある日言った。
「真夏にアルプスに登りたいから、計画を立ててくれ」

私もMも、登山が好きということではない。
私はその数年前、北海道の牧場でアルバイトをした帰りに、ひょんなことから知床の羅臼岳に登り、それで少し夏山歩きをかじっていた程度だし、Mはアルプス級の登山は未経験だった。

「それにしても、なぜ突然に山歩きなど?興味なさそうだったが…」
というのが、私の疑問だった。
何かの雑誌(夏山JOYとか…今も発刊してるのか?)で夏山の景観写真でも見て行きたくなったのだろうか?

「人が少ないところで、ゆっくり日向ぼっこしたいんだ」
と、Mは希望を言った。

日向ぼっこ?
何か人生に疲れたのか?
その辺の公園とかではダメなのか?

私は山に詳しいわけでもなかったが、南アルプスの鳳凰三山縦走に決めた。
平日なら人が少なそうだし、縦走中に私の好きな北岳を眺められる。
その後計画を知った私の弟も、その山行に同行することになった。

1日目は平川峠越えの林道を歩き、御座石鉱泉付近にテントを張った。
2日目は、鳳凰小屋裏のキャンプ場で寝た。 翌日が縦走である。

快晴とまではいかなかったが、まずまずの天候だった。
平日ということもあり、 縦走路には、ほとんど登山者がいなかった。

地蔵岳から観音岳を過ぎ薬師岳に着いたとき、Mが、
「ここがいい!ここは薬師岳だろ。名前からして効きそうだ」
と、力強く言った。
「?」


薬師岳(実際のその日の写真参照)には砂地のような広場があり、大きな岩が重なったような地形になっている。
地蔵岳のオベリスクは有名だが、薬師岳にも巨岩がたくさんある。

Mは、
「悪いけど、ちょっよ見張っててくれ」
と言いながら、服を全部脱いだ。

んん?

「尻を太陽光線で干す」

尻を?干す?

Mは大きな岩を登り、風は避けられるが太陽光は当たるという場所を探し当て、裸の尻を太陽に向けて寝そべった。
私と弟は、その奇岩の上の奇人を眺めるしかなかった。

素っ裸なのだから、他の登山者が来ると問題である。
私と弟は手分けして、左右の登山路を見張った。
Mは小一時間ばかり全裸で日光浴していたが、不思議なことに一人も他の登山者が来なかった。

私と弟は見張りに疲れ、Mの奇行に戸惑っていた。

Mは満足げな表情で岩から下りてきて、少し赤く日焼けした尻にパンツを履きながら、口笛を吹いていた。
「実は、俺は【痔ろう】なんだ。病院で治療してもなかなか治らない。やはり太陽光だろう!それも太陽に近い場所の紫外線が効きそうだ。地蔵岳にも寝転べそうな岩があったけど、あそこは【痔増岳】だしな」

数年後、Mは故郷に帰り教師になった。

薬師岳での太陽光(強烈紫外線)プラス岩盤浴(自然石放射熱)の効果もなく、彼は結局痔ろうの手術をしたとの便りがその後に届いた。

薬師岳の岩石の効能は虚しく、やはり【痔増(地蔵)岳】のほうが、マイナスパワースポットとして霊力があったかもしれない。

(このお題、完)

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2019年01月23日

知床羅臼岳山頂付近で始末書 [1] (初めての本格登山の思い出)

知床羅臼岳山頂付近で始末書(1)

大学1年のとき、私は夏休みに北海道の牧場で1カ月間アルバイトをした
そのときのことは別のところで書いてみようと思うが、そのバイト終了後、私は生まれて初めて登山らしい登山を経験した。

登ったのは、知床の羅臼岳である。

大学の学生課の掲示板で北海道でのアルバイトのことを知った私は迷わず応募し、色々と細かな手続きを経た上で、7月中旬に夜の上野駅にいた。

80人くらいの学生が、上野駅に集まっていた。
集団で夜行寝台列車に乗り北海道に向かうのである。

列車で隣の席になった某大学の4年生の人が私に言った。私がたまたま軽登山靴っぽいものを履いていたからだろう。
「登山したことあるの?」
「え、登山ですか?ないです」
「ふ~ん。じゃ登山しようよ」
「登山?…」

私葉瀬戸内沿岸で育ったので、高山に上る登山というものの見当がつかなかった。
だから、すぐには返事もできずにいた。

「俺たちが行く農協は厚岸だろ。知床にも近いんだ。せっかくの機会だから羅臼岳に登ろうと思ってるんだけど、一人じゃ面白くないしさ」
「はぁ…」

(私の文で再現できているかわからないが)、彼がしゃべるのは見事な東京弁であった。
数か月前まで、広島弁(備後弁)の世界にいた私にとって、それはかっこいい言葉だった。

話を 聞いてみると、彼の父上が登山好きで昔から山に連れて行かれて、自分も大学の登山部に入るほどになっている人だった。
今回のバイトで知床近くに行くと知った父上が、
「俺も昔登った。いいところだから登って来い」
と勧めたということだった。

登山?
魅力的な提案だった。

私は数ヶ月前に広島から上京し、今北海道に向かっている。全てが未知の世界である。
目の前にる人は数十分前に会ったばかりの知らない人である。

とはいえ私は若区、好奇心も満々だったから、
「登ります!」と答えていた。

厚岸駅につくと、私は酪農家に配属され、朝5時前から夜7時過ぎまで働いた。
きつかったが、人生の中であれほど楽しかったことはなかった。

山登りに誘ってくれた先輩は、子牛の生育農家に配属された。
そこは私とは別世界で、朝夕の牛乳絞りがないので早起きの必要もなく、入植して何代か重ねていたので経営に余裕もあり機械化も進んでおり、他にも何人かのバイトがいることもあり、要するに農作業の量が私の場合に比べ半分以下だった。

一度登山の打ち合わせで、その先輩の農家を訪ねたときに聞いたのだが、
「ここは楽だぞ。みんな優しいし、思ったより仕事が少ない。麻雀したりしてる。若旦那が麻雀を覚えたてで教えてくれと言って実戦をするんだ。麻雀ばかりしてるんだ」
と言うのだ。

「へぇぇ…」

そして1ヶ月のバイトが終わった。
私は登山用具を持っていなかったので、先輩が実家から一通りの用具を駅まで送ってもらっていた。
宅配便などない頃で、荷物は駅舎に届き、そこで保管されるシステムを使っていた。

私は先輩の家から送られてきたカーキ色の登山リュックに、借りた登山用品と自分の荷物を入れて、それを背負って山に登るのである。
ひと月のバイト生活のために持ち込んでいた登山と関係ない余分な私物まで背負った荷に含まれているので、リュックは信じられないほど重かった。

それを背負ってみた先輩が、
「ははは、こりゃ35キロくらいありそうだ」と笑っていたが、私は、
「こんなものを背負って登山などできるわけがない」
と、真っ青になった。

私たちは、まず根室市内に行き、食料などを仕入れ、バスで羅臼街に向かった。
お盆の時期だったので、羅臼の町では夏祭りが行われているようで、盆踊りの音楽が遠くで聞こえた。

私は登山というものをしたことがなかったので、すべて先輩の指示に従うだけだった。
先輩は、海岸近くの川の近くの空き地を宿泊地に選定した。
二人で、そこにテントを張り、寝床を整えた。

町の子供たちが浴衣姿で歩いていた。近くに盆踊り会場でもあるようだった。
「俺たちは、スナックにでも行こう」
と先輩は言った。
「こういうところのスナックはおもしろいんだ」
「へぇ」

夕日は山の向こうに沈み、辺りには紺色の闇が広がってきた時刻だった。
山影の町は薄暗いが、空はまだ明るい。

その空に、明日登る羅臼岳がそびえていた。
1600m程度の標高だが、海抜0メートルから登るので、かなりの道のりなのである。
それに、私のリュックは35キロもあるし…。

(つづく)

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2019年01月24日

知床羅臼岳山頂付近で始末書 [2]

知床羅臼岳山頂付近で始末書(2)

翌日は、夜明け前に起きた。
薄暗い中でテントを撤収し荷をまとめ、さあいよいよ登山開始である。

もう一度書くが、 羅臼岳は、1,661mしかないが、海抜ゼロメートルから登るのでなかなか大変なのである。私は初登山だし、荷は刑罰みたいに重いし、である。

そのうえ、ここではヒグマが出没する可能性がある。それも『かなり』高確率?で。
そのため私は先輩に命じられ、ヒグマよけの笛を吹きながら登ることになった。森林限界を越えるまでずっと吹くのである。

登山で息が切れるのに笛を吹くのであるから、これはかなりきつかったが、私はまじめに笛を吹き続けた。

というのは前日のスナックやそのあとのテントの中で、先輩からヒグマの恐ろしさを実話とともにじっくり聞かされていたからである。

「こわいだろ?」
「ほんとに、こわいですね。ヒグマって、想像をこえてるんですね」
「そ。だから笛だ」
「わかりました」
そんな感じである。

(その後私は吉村昭氏の一連の『熊作品』を読み、もっともっとヒグマの凄みを知ることになるのだが、ここでは関係がない)

小学生の頃の近郊の数百メートル級の山のピクニックとは違い、刑罰級の荷を背負って笛を吹きながらの初めての登山だから、最初のうちは、私はなかなかペースがつかめなかった。
しかし先輩が私に何度も声をかけアドバイスをしてくれ、私のペースを尊重してくれたので、私は徐々に歩くコツがわかり、樹林の合間に見える景観や足元の花などにも目が向くようになった。

ピッピッピ、と私の吹く笛が山に響く。
あとで、
「しかし…リュックに鈴でもつければ良かったんじゃないか」
と思ったりしたが、やはり鈴だと歩き方によっては音が鳴らないから、口で吹く笛のほうが確実なのだろうな…たぶん。

私は歯を食いしばって、なんとか羅臼平まで登りきった。
ひと月の農作業があったから、超重力級の荷を背負っての初登山も、なんとか楽しみを感じながらできたのだと思う。

羅臼平は平坦な広い場所で、一部エリアが指定テント場になっていた。
我々は荷を降ろし、少し休憩してからテントを設営することにした。お盆休みということもあってテント場には思ったり多くのテントがすでに張ってあった。

「少し離れたこのあたりしよう」
という先輩の指示で、我々は他のテント群からやや離れた場所に自分たちのテントを立てた。

この『やや離れた』ことが、大問題の元となってしまうのだが、それはこのあとで。

我々は、水筒とお菓子だけを持って、身軽名足取りで、日が落ちる前に山頂を目指した。
(翌朝もご来光を見るために夜明け前に再度登頂した)

羅臼岳山頂に向かう途中には大きな岩場などもあった気がするが、残念なことに確実な記憶があまり無い。
この登山の時に、自分で撮影した写真が10枚ほど残っているのだが、羅臼平から羅臼山頂までの道中の様子を撮影したものはない。

そこで今回この文を書くにあたり、ネットで検索して羅臼岳の登山路の画像をいくつか見えてみた。

山だから何十年経っていっても、景観が大きく変わることはないだろう。
「こんなところを登ったのかぁ」
と思ってしまうような、やや険しい箇所もあったようである。

写真はないのだが、私の記憶の中にある(私の脳内の美化された?イメージ…)山頂からの景色はすばらしかった。

羅臼岳山頂からは、太平洋もオホーツク海も見える。樺太(サハリン)も見える。北方四島は全部きれいに見える。すぐそこだった。
国後島の爺爺岳(チャチャ岳)は、綺麗な山容を蒼い海に浮かべていた。ほんとうに美しい景色だった。

私と先輩は、足元が見えるギリギリまで山頂にいた。

     (私が、羅臼平から羅臼岳山頂を撮影したもの)

(つづく)

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2019年01月24日

知床羅臼岳山頂付近で始末書 [3]

知床羅臼岳山頂付近で始末書(3)

テントに戻って、中で湯を沸かしてお茶を飲んでいると、テントの外から声がかかった。
なにやら、怒っているような険しい声色であった。

先輩がテントから顔を出す。そして外に出た。
声をかけてきたのは我々とそう年齢が変わらない青年で、あとで北海道大学の登山部の人だと知った。
彼らはボランティアでこの羅臼平に交代で常駐し、自然保護活動をしていたのである。

用件は詰責であった。
彼の指摘は、我々がテントを張った場所は指定地から外れており、テントを張るため掘った側溝で貴重な高山植物を掘り起こし、加えて高山植物の上にテントを張って潰すというダブルの過ちを犯している、ということだった。

先輩はなにやら抗弁していたが途中で諦めた。
山のベテランであり自然保護など十分承知していた先輩であったが、この場合はどうやら勘違いがあったようだった。

というのは、我々がテントを張った場所は一面の砂地(にしか見えない)であり、高山植物など見当たらなかった。だから我々には、高山植物を傷つけたという実感が全くなかったのだ。

「このあたりは今は枯れてしまいちょっと見にはわからないのですが、高山植物の根のようなものが地下にあるのです。ですから掘り起こすともう生えてきません」
そういうことなのであった。

高山植物はとてもゆっくりしか育たない。そしてほとんどが貴重種である。
人が入る場所では、人が保護しなければならないのである。

我々は素直に謝罪し、テントを移動した。
そして、保護ボランティアさんの差し出したノートに【始末書】を書いた。

「形式的なものです。どこにも提出などしません。でも活動記録と一種のケジメとして書いていただいています。もちろん任意です」
始末書といっても、そういうものであった。

我々は保護ボランティアさんに指示されるまま文面を書いたのだが、十数種類の高山植物名を記すことになった。我々が掘ったりテントを立て荒らしたことによる被害高山植物がそんなにあったらしいのである。

う~ん、ちょっと盛りすぎではなんじゃ…?(本音)

「実はこのごろ高山植物の違法密採集が問題になっているんです。どうも暴力団の資金にもなっていると警察に聞いています。ですからこうして我々が監視しているのです」
という話も聞いたので、そういうことに努力されている方々の思いもあるのだと考え、私は始末書に多くの高山植物の名を書いた。

とはいえ、やっぱり、そんなにたくさんの高山植物を傷つけたとは思わないんだけどなぁ…。
翌日、斜里側に下山したのだが、途中であいさつをしてもまったく反応しないし、目もあわせないグループが2つあった。
なにか様子が変だし、明らかに服装が一般登山者とは違うのである。

すれ違った後で先輩が言った。
「なあ、さっきのやつら。あれが密猟…じゃない、密採集者じゃないか?」
「そうかもしれないですねぇ、なんかこう怪しいかんじ…」

ほんとうに怪しい感じ!
彼らが密採集者だとして、もし摘発されたら、形式的なノートへの始末書では済まないだろうなぁ。
しかし、ギャングなんだから、誰が捕まえるのだろう?
学生では無理じゃないのか

そんなことを考えながら、私は山を下った。

私は下り道も、一心にヒグマよけの笛を吹いて歩いたが、私の心の中では、それは熊への警告ではなく、密採集者への警告になっていた。

ぴっ、ぴっ、ぴぃ~。
高山植物を採っ茶ダメ!

(このお題、完)

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2019年01月24日