エッセイ02一覧

孤立無援の一人応援団 【カープvs巨人】 [1] (広島育ちの熱狂的巨人ファンの私は、上京して後楽園球場で一人応援団・・・。危機迫る!?)

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孤立無援の一人応援団(1)

2004年の『プロ野球再編問題』があったときに、あるオーナーの発言を聞いて、私はまるっきりプロ野球に関心がなくなってしまった。
それまでは、贔屓球団の試合を全部最後まで(ラジオ含む)観戦していたのだが…。

これは、それよりもっともっと前の大昔の話である。

不憫なことに、私は大阪で生まれ、広島で育ちながら、なんと2004年までは熱烈な巨人ファンであった。

私の父親は強烈なアンチジャイアンツであったが、それにも増して強烈な長島ファンであった。
父は、テレビの野球観戦のとき、『長嶋が活躍するがジャイアンツが大敗する』という時に一番機嫌がよかった。

そもそも、CS放送さえある現在では考えられないが、大昔のテレビ野球中継といえば全国区人気を誇る巨人戦だけであった。

広島に在住する者でさえ広島カープの試合は(球場に行かないなら)、テレビでカープが巨人と試合をするときに見るしかなかったのである。(ラジオはたぶん別)

巨人戦ばかり見て、その巨人が9連覇などという強い時代もあったので、私は巨人ファンになったのであった。
(今は、カープを応援。でも生まれながらのカープファンの友人たちには、いまだに受け入れてもらえないかも)

熱烈な巨人ファンとなっていた私が大学生となって、肩身の狭い思いをしていた広島から東京に出てきたときに、
「よしジャイアンツの本拠地である後楽園球場(まだ東京ドームはない…)でジャイアンツを応援しよう!」
と思ったのは当然だろう。

私はさっそくチケットを手配した。
そのころはメジャーなプロスポーツは野球とかプロレスとか相撲とかゴルフくらいだし、プロ野球人気は現在では想像もつかないほどで、球場はいつも超満員であった。
(当時は、巨人と阪神限定?)

やっとビジター側の外野席の一番前の券がとれた。
そして相手は、なんと偶然にもカープであった。
ん~因縁を感じるぞ!

カープは当時は(今も?)資金のない弱小球団であり、鯉のぼりの季節まで快調にとばしていても、結局は最下位になってシーズンを終わるのを常としていたが、その頃は劇的に強くなっていた。

1975年、ルーツ監督が赤いヘルメットを採用し【赤ヘル軍団】としてチームを作り変え、ルーツ監督を引き継いだ古葉監督のもとリーグ初優勝もしていた。
ところが、その年の巨人は、長島監督のもと最下位であった。

私が後楽園球場に乗り込んだのは、そういう『巨人氷河期』の時期である。

私は古い布団シーツを切って2枚の布にし(…袋状のシーツなので2分割しても大きさは 2m x 1.2m くらいある)、その白い布の片方に『G』と大きく書き、もう片方には『がんばれ!』あるいは『ファイト!』とか書いた。(記憶があいまい)

そのころ夏山登山をしていたのでテントを組み立てるためのグラスファイバー製の棒(何本もつなげて組み立てる)を旗の竿にした。(これを球場で組み立てるのだ)

その日、私は大きな袋にその自作の旗と棒と固定用のガムテープを入れて、球場に向かった。

球場にはかなり早めに着き、私は余裕を持って旗を組み立てた。
レフトスタンドの最前列なので、前に通路スペースがある。組み立てにも、組み立てた旗を置いておくのにも好都合であった。

ん?レフトスタンド?
そう、広島カープの応援団本隊が陣取る場所である。

そんなところで、広島県民に嫌悪されているジャイアンツの応援旗を組み立てている私は、大丈夫なのか?
ジャイアンツを応援するために組み立てた、大きな2つの旗は、振り回せるのか?

試合開始が近づくにつれ、私の後方のレフトスタンド席はみるみる埋まっていく。
私の周囲の席も広島ファンで満席である。
あたりは聞き慣れた広島弁だらけとなる。

「う~ん、懐かしい方言だ」
と思う余裕はない。
全員が要するに、野球的には私の『敵』である。

私は少しばかり身の危険を感じた。
が、若くてバカでもあった。

「どうせ同県人だ。襲われても(そんなことはないが)、広島弁で弁解すればなんとかなるだろう」
とタカをくくっていた。

(つづく)

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2018年12月01日

孤立無援の一人応援団 【カープvs巨人】 [2]

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孤立無援の一人応援団(2)

試合が始まった。

ビジターの広島カープの攻撃からである。当然のこと、私はおとなしく試合を見守った。
あたりは広島弁に満ち満ちている。当然すでにカープファンのみなさんには酒も入っているようだ。

さてその裏の巨人の攻撃となる。
私は(今考えると、どうかしているとしか思えないのだが…)ひるむことなく、ジャイアンツと大書した旗を持ち上げ、レフトスタンドの最前列で振り回した。
さきほども書いたように、最前列だから目の前は通路で思い切り振れるのである。

「おら~、行け~!ジャイアンツゥ~!!」
ある意味、これはとんでもない行為であろう。

私の後方は、すべてネイティブに広島弁を話すカープファン。
そして、闘魂と化した正真正銘の応援団が満載である。

そこではカープ応援団の本物の巨大な旗が立ち並び、トランペットや太鼓がいくつも鳴り渡り、赤いハッピであふれているのだ。

(おそらく)たった一人の若者(私)が狂ったように目の前で自作のジャイアンツの旗を振りながら、大声を出している光景が、あまりに予想外の出来事だったからか、目の前でジャアイアンツに声援を送る酔狂者の私に対して、後方のカープファンからは怒りではなく失笑がおこっていた。

「おお、なんやあいつ!がんばれよ~」
「アホがおるでぇ~」
みたいな感じである。

それとも、一人応援の私が、どうにも不気味なので、そういうふうにして態度を紛らわすしかなかったのか?

そのときのリーグ順位や対戦成績はカープが上位であり、そのことが私に幸いしたといえる。
その日の試合も、結局0対9(私の記憶)でジャイアンツは全く良いところなく負けるのである。私の熱狂的な応援にもかかわらず…。

篠塚だったと思うのだが、サードからタッチアップしてライトのライトルの矢のような返球でホームアウトされたり、もうジャイアンツファンには、さんざんな試合なのであった。

だから、私は無事だったのか?

たぶん半分の理由はそうだろう。
(もう半分は、広島県人は意外と優しい? 仁義ある人々!)

カープファンというのは、チームが強くなって応援団が自主的にマナー徹底を呼びかけるような心の余裕ができる前は、広島球場の外野(球場内!)で焚き火をして弱いチームを奮起?(脅迫)させようとすることもあったのである。

(私の記憶では、その外野席で焚き火があった試合はテレビ中継されていて、リポーターによるとあの世界に誇る衣笠選手がベンチで泣いていたそうだ)

敵の渦中での私の熱烈な応援にもかかわらず、巨人軍は大敗した。
これが私の球場に行った最初の経験であった。
少し悲しいし、やはりそんな私は不憫だ。

おそらくだが、この日たまたま私の故郷のチームであるカープ戦であったから私は恐れることなく(ちょっと、びびったけど)旗を振れたのであって、もしこれがタイガース戦やドラゴンズ戦であれば怖くて何もできなかったであろう。
(他のセリーグチームなら微妙)

今、私は、紆余曲折を経て平和にカープを静かに応援している。
同窓のLINEグループで、カープの話題が出ていると、一人で微笑んで、みんなの熱いメッセージを読んでいる。
(話題についていけないだけ…?)

幼馴染の根っからのカープファンである親友F夫婦と私夫婦で、時々球場に行く。
私はカープグッズを一つ身につけ、カープを応援する。

カーン!
おお、カープに本塁打が出たぜ!

妻が私に訊く、
「今、打ったの、誰?」
私は答える。
「スズキセイヤだよ」

私はスコアボードで打った選手の名前を確認して、カープファンになりすましている。

(このお題、完)

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2018年12月01日

涙の懇願で座席交換 【カープvs巨人】 [1] (カープ応援団のど真ん中で野球観戦になるとはのう…)

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涙の懇願で座席交換 【カープvs巨人】(1)

以前のこと、数年にわたり、私の親友F(カープの熱烈で正統なファン…正統という意味はカープが弱小である時代から全く揺らがずカープ一筋であり、東京に住むようになっても地元からカープ情報誌を取り寄せるなどして二軍選手の事情にさえ詳しい情熱の人)が、東京ドームでの広島vs巨人の開幕戦のチケットを勝手に送りつけてきていた。

「呉越同舟で、いっしょに観戦しよう」
ということである。
(ご招待ではなく私のぶんのチケット代は私が払う)
その頃はまだ、私はジャイアンツファンであり、プロ野球ファンでもあった。

何年かそういうことがあったので、どの年のことだったかは覚えていないが、その年はセンターに近い外野席であった。
いつもは友人Fが内野席か広島側の応援団近くのレフトスタンドの席を取ってくれるのだが、すでにそういう席が空いていなかったらしい。

まあ席の位置は、どこでもいいのである。
センター側から観戦するのも、それはそれで面白いものであるし。

広島の攻撃時には、Fが赤いメガホンを出して振り回して騒ぐ。
巨人の攻撃字には、私がオレンジのメガホンを出す。
それを遠いセンター近く(左中間中段)の外野席で繰り返すのである。
(周囲の人はおとなしく試合を見ているので、ちょっと異様)

3回か4回の攻防が終わった後のインターバルのときであった。
私は横を向いて友人Fと話していたのだが、その私の肩をトントンと誰かが叩いた。
球場でそういうことをされることはないので、私はビクッっとして、そちらに顔を向けた。

そこには一人の青年が立っていた。
私はさらに驚いた。彼が涙ぐんでいたからである。

「な、なんだ、こいつ」
「あのう、すみません…」
「は、はい?」
「ボクと友達の席は、あそこなんです」
彼は遠くのレフトスタンドを指差していた。

「あそこって?」
「ほらカープの旗が何本も振られているでしょう。あそこの旗の真下の席です」
「?」

よくわからない。
それがどうしたというのだろう?
それに涙目って、なに?

その若者が私に小声で話しているので、隣の友人Fには話の内容は聞こえず、私の腕を
「どうした?」
って感じでつついていた。
が、私にも状況がわからないのだ。

すると涙目のその青年は、こう言った。
「席を替わっていただけませんか。お願いです!」
「?」

「僕たちは巨人ファンなんです。初めて球場に来たんですけど、席が広島応援団の真ん中だったんです」

なるほど、ちょっとわかってきたぞ。涙目の理由が。

「周りがぜんぶ広島弁で…応援団の中にいるのが怖くて」
「…そりゃそうだろう。俺だって怖いときがあるしな…」
(これは私の心の中の声。実際は黙って話を聞いていた)

「あそこで友人と二人でおびえていたら、遠くにあなたがたが見えたんです。カープの攻撃時にすごく熱心にメガホンを振り回して立ったり座ったりする姿が」

それは私ではない。隣のFだけだが…。
なるほど。

「そこで友人と話して、あなたたちになら席を替わってもらえるのではないかということになったんです。それでお願いに来ました。席を替わってください!」

その若者は必死である。本当に涙ぐんでいるのだった。
楽しいはずの野球観戦が(立場の違いだけで)一種の地獄になるとは、とても不憫ことだ。

(つづく)

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2018年12月02日

涙の懇願で座席交換 【カープvs巨人】(2)

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涙の懇願で座席交換 【カープvs巨人】(2)

それにしても不思議な話である。
人はいくらでもいる客席で、かなり遠くにいる我々に目をつけるとは…である。

私は巨人ファンなので気乗りはしないが、カープ応援団の真ん中に移動することに、さほど抵抗はなかった。広島出身なのでまあいいだろうと思った。
友人Fにとっては熱烈なカープファンだから嬉しい申し入れである。
私とFは快諾した。

我々と彼らは、お互いのチケットの半券を取替えて席を移動した。
若者二人は、紛争地域の戦場から生還した兵士のように喜んでくれた。
あまりに彼らの歓喜が強いので、私としては閻魔大王に自己申告できる善行を増やした気分であった。

「そんなにカープ応援団が怖くはなかろうに」
と広島出身者の私たちは思ったが、おそらく【仁義なき戦い】でしゃべられているような言語があたりを覆っていれば、非広島弁地方育ちの若者はそういう恐怖心理に陥るのかもしれない。

気の毒だ。
でも、実際は、広島弁は怖いけど、広島県人は怖くはないぞ。たぶん。

さて、席を替わるとカープ応援団の真ん中である。
これはこれで、あまり経験できまい。
カープの熱烈ファンである友人Fは狂喜し、私は、
「まあ昔こういうことあったしなぁ」
くらいで、別に平気である。
広島県人だし。

友人Fは乗りに乗って応援団とともに、ファンが一体となってシンクロする一糸乱れぬ応援を繰り広げる。
カープの攻撃中だから、私は黙ってそれを冷ややかに見ている。

そして、ジャイアンツの攻撃になるとあたりは静まる。
今度はライトスタンドのジャイアンツ応援団(それとホームだから内野席あたり)が騒ぎ出す。
で、同時に私も騒ぎ出す。だって、そのときはまだ熱心な巨人ファンだからねぇ。

さっきまでの応援に疲れて静まり返って休んでいる広島応援団の真ん中で、私一人がオレンジのメガホンを振り回して立ちあがったりしながら、ジャイアンツを応援するのである。
そのときは別に平気だった。
ちょっと分別がついた?最近はもう怖いかもしれない…が。

とにかく、そのときは自分がいる場所のことなど、なんとも思わなかった。
気分は【曹操軍百万の中の趙雲子竜大奮戦】である。
(三国志好きのかたなら、「なるほどぉ。わかるぜぇ!」でしょ?)

そのとき一人の係員が血相を変えて走り寄ってきた。
「お客様!」
「?…(なんだ、こいつ?)」

「ここは広島応援団の真ん中です」
「うん」
「不測の事態が起こりえますので、少々おとなしく応援していただけますかぁ!」
口調は丁寧だが、語感は命令調であった。なんか気に障る。

「不測の事態ってなに?」
「それは具体的には言えませんが、不測の事態です!」

要するに周囲の広島ファンを刺激しているからダメだということであろう。
真顔で本気で、私を諫める顔である。

ほんとに、時々何か起こるのか!?

「どうすればいいの?応援できないの?」
「いいえ、もちろんお客様の応援は自由です。ですから、その…目立たないように」
「目立たない応援?」
「はい」

目立たない応援?

「どんな?」
「メガホンを椅子の下で見えないように振って、応援の言葉も小さく…」

それでは応援じゃなかろう。
そうは思ったが、係員の心配がわからないでもなかったし、その必死の形相に押されて、私はしぶしぶ応援をやめ、メガホンを紙袋にしまった。

「ご協力ありがとうございます」
そう言い残して、ほっとした顔で係員は去った。
彼もまた、涙目であったような…。
隣で友人Fが、にやにや笑っていた。

その試合はカープが勝った。

以下つけたし。
その後は、友人Fがそのようなチケットを送りつけてくることがなくなった。
理由は簡単である。結婚したからである。
結婚した奥さんも熱心なカープファンとなり、Fは奥さんと球場に行くことになったからである。

二人はカープの応援様式に準拠して正しい応援(メガホンを振ったり、タイミングを合わせて立ったり座ったり)をしているらしい。 まことに結構なことである。
F、ずっと幸せにな!

もひとつ、付け足し。
この頃は、F夫婦の誘いで、私も妻を連れて、神宮球場でカープ戦を観に行く時がある。
元熱烈な巨人ファンの私が、カープvsスワローズを観戦するんである。

世の中も変わったが、私も変わったもんである。

(このお題、完)

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2018年12月02日

プロレス好き [1] 

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プロレス好き(1)

昭和世代の男にはプロレス好きが多い!と断定はできないし、しない。
が、ある年齢以上の男同士だと、プロレス話で盛り上がることが多いのも事実である。
それは民放のゴールデンの時間帯に毎週(一時は2つも)のプロレス中継があったからであろう。

プロレスは過去から現在まで、いつもマイナー扱いでありながらも、実はメジャーな分野である。
プロレスには高いスキルと経験とひらめきが必要で、肉体的に過酷なプロスポーツでありながら、なにやら地方周りの劇団のような感じもある。

アメリカではWWEがずっと前から、日本では新日本プロレスが2015年あたりから華やかな演出で、プロレスのイメージを変えた。

もっとも、WWEと日本のプロレスはかなりコンセプトそのものが違う。
そのあたりは、ここでは触れないが、2019年現在、中邑真輔やASUKA(華名)がトップで活躍している姿は嬉しいものである。

さて、白状すると私はそこそこ長く生きていて、プロレスのテレビ観戦は小学生の頃からずっと続いているが、実際にプロレス会場に行った回数は10回もない。
ダメファンである。

会場を知らずしてプロレスを好きだと言って語るとは言語道断であるが…。 言い訳ではないが(言い訳だが…)、プロ野球を熱く語る人は多いがやはり一部の人を除き、多くはテレビ中継での観戦だろうと思う。
そんなに頻繁に球場で観戦する人はいないでしょう?
でも、みんな野球を語る。

だから私がプロレスを語るのを許してもらいたいのである。
とはいえ、私は今ではプロレス論にはさほど関心はない。(ということは昔は関心ありありだったわけだが…)
ここで語りたいのは、私の個人的な思い出やプロレスについてのちょっとした思いなのである。

プロレス論はしないのだが、最初だけ少し語る必要はあろう。
以下に書くことは、プロレスファンにとっては常識である。ただしプロレスファンでない人は、知らない場合があるので、念のために書いておくだけである。

長くプロレスを観てきてつくづく感じるのは、プロレスは観るのも(やったことがないので「たぶん」だが)やるのも、とても難しい。

他の一般的な格闘技は、もちろん危険防止のためのルールはあるが、基本的には、
【相手の攻撃を受けず自分だけ一方的に無慈悲に攻撃して勝つ】
ことが良く、そういうことができる選手が素晴らしいのである。

高い料金を払ってプロクシングの最前列を確保し、試合がノックアウトで10秒で終わっても誰も問題にしない。
(料金のぶんもっと観たかったなあ、というのはあろうが)

ところがプロレスは違う。
『一方的に攻撃して勝つ』
など、プロレスとしては素人なんである。

ときおり試合開始と同時の攻撃(特に打撃)が、まともに当たるときがある。
人間だから鍛えていても当たる箇所やによっては一時的に深刻なダメージを受け、簡単にいうと気絶したりする。
(私がすぐ思い浮かぶのは、川田vsスタン・ハンセン戦)

(つづく)

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2018年12月03日

プロレス好き [2]

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プロレス好き(2)

選手が気絶してしまえば、誰がどう見ても試合終了である。
押さえ込めば3カウントだし、10カウントされればノックアウトである。

が普通、プロレスの試合ではレフリーもカウントしないし、相手選手も押さえこまない。
選手はスタンピング(足裏で蹴る)したり、頭髪を掴んで気絶している選手を立たせようとしたり、
「こいつ、どうなってんだ。ええ!」
というような観客へのアピールで時間を稼ぐ。
相手をいたぶるように顔面に強烈なビンタをして、意識を戻そうとするときもある。

そのうち相手選手は意識を回復し、試合が続行できる。

誤解のないように書いておくが、そのまま押さえ込んで3カウントが入ってしまい試合が、数十秒で終わったのを何度か見たこともある。
そういう場合に、どのように試合を進めるかは、そのときの状況で選手やレフリーが判断するのである。たぶん。

これをどう考えるかがプロレスを観れるかどうかの、一つのポイントでもある。

「おかしい!」
と思うのは、それはそれで普通である。
そういう人は、たぶんプロレスを観れないし、たぶん試合を八百長扱いする。
それもまあ、もちろん常識である。それそれでいい。

他の格闘技と異なるプロレスの独自性は、
【相手の技を(全てではないが)受けて試合を成立させる】
【試合に負けても、主役になれば勝ったことになる】
ということである。

考えてみれば、 そんな格闘技はありえない。
相手の攻撃を受ければ、即やられる(負ける)。
プロ格闘家は、勝ってナンボである。

そういう【プロレス特性】を受け入れられない(それはそれで極めて正常な感覚)人間は、選手も観客もいわゆる格闘技方面に行くしかない。

プロレスという競技はいろいろな変遷によって、【攻撃を受ける形式】になっている。
これはもはや良し悪しではない。それこそがプロレスであろう。
よってプロレスラーは、相手の攻撃を受けられる強靭で柔軟な筋肉で包まれた身体を作り、受身を数百数千回練習することになる。

人間の脳は鍛えると慣れてしまい脳震盪をおこしにくくなるらしい。
(もちろん、身体的には超危険!)

江戸末期の有名な剣豪は、
「竹刀で脳天を打たれてクラクラして負けてしまわないように頭を柱にぶつけて慣らした」というのを司馬遼太郎先生の文で読んだことがある。

「プロレスは信頼関係である」
と言われる。
それは【ある程度相手の攻撃を受けなければならない】という格闘技にあるまじき部分があるからである。

わざわざ攻撃を受けてやるのにむちゃくちゃなこと(えぐい攻撃)をされてはたまらない。
「たまらない」という意味は、
『いくら鍛えていても身体に危険が及ぶ』ということが主要素だが、
「わざわざ受けてやっているのに、そんなひどいことをするなんて!」
という感情的なものもあると私は思っている。

このあたりは、『受け身の上手下手』との関係もあるので、なかなか難しいところではある。
「それぐらいポイントをずらして(ずらせばダメージが減る)、わざとふっとんで、オレの技をすごく見せる技術を持ってろよ」
と、攻撃側は思うだろうし。

こういうプロレスの基本部は書いても書いても相手によっては、まったく伝わらない。
書いているのは理屈なのだが、実のところ、おそらく…もはやこの部分は理屈ではないからである。
そういうプロレスの特性を容認できる人でなければプロレスを受け入れられないようだ。

格闘技であれば本来絶対に受けてはいけない相手の攻撃をある程度受けて、肉体の強靭さや精神力を観客に見せる義務?のあるプロレスは、選手にとってはまことに難しいと思う。

だから、私はプロレスラーの皆さんを深く尊敬している。
大きな致命的な怪我なく(所詮それは無理なことなのだが)、素晴らしい試合を期待しています!

(このお題、完)

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2018年12月03日

アブドーラ・ザ・ブッチャー (オールド・プロレスファンなら、レジェンドでしょ!)

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アブドーラ・ザ・ブッチャー

人間の記憶(私の記憶限定?)はアテにならないと、つくづく思わされる。

アブドーラ・ザ・ブッチャーとシークが、(食器の)フォークでテリー・ファンクの上腕を刺して流血させ、会場が大荒れになり、熱狂的に盛り上がった伝説?の試合【全日本プロレスの『世界オープンタッグ選手権』の最終戦で蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の戦い】がある。

この試合があったのは、私の小学生の頃のことだとずっと思っていたが、調べてみると、1977年12月に行われていた。
それなら私は、すでに大学生である。

弟と一緒に炬燵に入ってテレビ観戦した記憶があるから、帰省中だったのだろう。
ブッチャーもシークも、いわゆるプロレス技は一切出さない。打撃と凶器攻撃を含む反則で試合を組み立てる。

今、考えてみると、すごいな。
人が人を、ただ度突きまわしているのを退屈させず、観戦させてしまうのだからなぁ。
(誤解する人も多いが、プロレスファンの大部分は、ケンカそのものを観たいなどとは全く思っていない)

凶器攻撃のブッチャーは、その後、プロレス界を超えて悪役人気が爆発し、テレビCFにも出たりした。平成になっても、70歳を超えても、来日してたなぁ。

それから時が経ち、数十年後。ブッチャーの引退前の時期だと思う。
ある年のお盆、私は福島県の阿武隈高原パーキングに車を停めた。妻の実家に墓参りに帰る途中だった。

駐車場には大型バスが一台あり、【全日本プロレス】と書いてあった。
「おお!」
私は興奮した。 私は全日本プロレスを観て育ったからだ。
(新日本も好きだけどね)

車から降り、トイレに向かうと、トイレの前に一人の巨漢が立っていた。
それが、あのブッチャーだった!

ブッチャーは、サングラスをかけ葉巻を吹かしていた。
ああ、まさしくブッチャーだ!

ブッチャーも年をとり、インディー団体に出たりしていたが、また全日本プロレスに戻ってきたのか?

もはやブッチャーは怖くない!(…はず)
ブッチャーは日本が好きだし、奥さんも日本人の血が混じっているというし、CFでもお茶目なところを見せている。

そもそも彼は、【職業人・キャラクター】としてのプロレスラーなのだ。
凶暴ではない!(…はず)

そんなことはわかっているが、私はどういうわけか、ブッチャーを目の当たりにして、
「握手してください」
が、言えなかった。
ものすごく、したかったのに。

私はブッチャーを恐れるように離れて歩き、チラチラと様子をうかがいながらトイレに入った。

それは私なりの、彼への【敬意】みたいなものだった。

私はなんとなくお腹が痛くなり、大のほうをしなければならなくなった。
トイレに座って、じっくり私は考え直した。
「おいおい、こんなチャンスはないぞ。引退したら日本にも来なくなるぞ。あのフォーク攻撃と地獄突きのブッチャーと握手ができるんだぞ!!」

私は急いで個室を出た。もちろん手は念入りに洗った。(一般常識・礼儀)

外に出ると全日本プロレスのバスは、ブッチャーを乗せて、すでに去っていた。

(このお題、完)

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2018年12月05日

三沢(光春)が死んだ? (プロレスがやらせじゃない!と身をもって示したら…)

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三沢(光春)が死んだ?

2019年3月。
三沢がつくった【プロレスリング・ノア】のマットの色やロゴのデザインが変わった。

「そうだよなぁ。新日本以外はインディーズ団体になっちゃった。ノアの大再生を期待しなくちゃなぁ」
私はそう思いながらも、何度か観戦に行ったディファ有明の緑のマットを思い出していた。

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あの日(2009年6月13日)の翌日、妻がバタバタと二階に上がってきて、眠っていた私を起こした。
「あの人が、クリスマスに試合を観に行ったときの、あの人が死んだよ!ニュースでやってた」

私は仕事で明け方までプログラムを書いていたから、昼も近い時刻だったが猛烈に眠かった。
妻が何を言っているのか、しばらく理解できなかった。
「あの人って?」

妻はプロレスに興味も知識も、まったくない。数回、私とプロレス会場に行ったことがあるだけである。
半年前のディファ有明でのノアのクリスマス興行を妻と観戦したので、妻はそのときのことを思い出しているらしかった。

「み、さ、わって人!」
妻は、半ば叫んでいた。
私が三沢を大好きだと知っていたからである。

「みさわ」といえば、三沢光晴しかいない。
私は体を起こして布団の上に胡坐をかき、頭を振って目を覚まそうとした。

死んだ?事故?

三沢はいわゆる【四天王プロレス】の中心にいたので、私は試合を見るたびいつも、
「彼はそのうち試合中に死ぬだろう」
と不安に思ったりしていたが、まさか試合で亡くなるとは考えもせず、そのときは本当に死んだとしたら交通事故かなにかだと思った。

「試合中に亡くなったって」
と、妻は言う。
その試合は、広島で行われていた。私の故郷である。

「試合で?」
試合で実際に三沢が死ぬなど、そんなことがあるだろうか?

「ああいう危険な試合をしていたら死ぬかもしれない」
と感じながらも、
「死なない。(命にかかわるほどの怪我もしない)」
と信じているから、我々は試合を観ることができるのだ。

三沢の【四天王プロレス】のことや、死の間接的(ある意味では直接的)原因である三沢の首の状態については、いろいろなところに情報があるだろうから、ここでは触れない。

プロレスにおいても、他の格闘技においても、そのような【事故】は少なからずある。
ただ、その競技ジャンルを守ろうとし、結果的にそのために命を落とした人間はそういないのではないだろうか。
そのことを一般世間に対して説明するには、そうとうな数量の言葉が必要になる。

いや、相手がプロレスに関心がある者であっても、相手によっては難しい。
私にその種の説明能力はないし、専門家でもない。
より詳しい人が、三沢の死について書いたものが多くあるはずである。

肯定も否定も含めてだが。 私は、あのときからプロレスを楽しめなくなった。
大好きな三沢が守ろうとしたプロレスなのに、だ。

WWEも、当然ながら鍛えあげ技も磨き、ちゃんと体を張るところは張っていると思うが、エンタメ感はぬぐえない。
(悪いとかは思わない。あれはあれだし、NXTなどできて格闘感は意識している)

「エンタメじゃないぞ!」
と世間に押し出してしまったプロレスの一つの道は、結局【ああいうふう(三沢の死)】になるしかないのだろうか?

そう思いながら、今は細々とプロレスのファンを続けている。

(このお題、完)

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2018年12月06日

三沢光春への献花式 [1] (長い行列、山のように積みあがった献花…。三沢選手、ありがとう)

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三沢光春への献花式(1)

2009年7月4日、東京・ディファ有明でプロレスリング・ノアによる『三沢光晴お別れ会〜DEPARTURE〜(献花式)』が行われた。

私は妻と花束を一つずつ持って参列した。

三沢選手は、その前月6月13日に私の故郷広島の試合で亡くなってしまっていた。全日本 ⇒ノアという私のプロレスファン遍歴のメインストリート(もちろん新日本や他の団体も好き)としては、言いようのないショックであった。

献花会場は、ディファ有明である。
私と妻は『ゆりかもめ』に乗り、最寄り駅である『有明テニスの森』で降りたのであるが、長く伸びている参列者の列の最後尾がどこなのかさっぱりわからなかった。
花束を手にした人々の列が、大げさではなく、遥か遠くまで続いているのである。

献花式に駆けつける人は多いだろうから、現場は多少は混んでいると思っていたので、私の性格としては珍しいことに、かなり早めに家を出た。
最寄り駅に降りたときは、まだ開場の2時間前くらいの時刻だったが、どうもすでに相当な人数が並んでいるようだった。

『ゆりかもめ』車内には、『花束を持った、どうみても献花式の参列者』が多くいたため、私と妻は、
「なんか思ったより人が多くない?」
などと話してはいたが、座っていたこともあり、車外の光景を見ていなかった。

見ていれば降車する前に気づいていたのだが、参列者の列は(都心側から見て)一つ手前の駅である『市場前駅』付近まで伸びていたのである。

警備の人にそれを聞かされた私たちは、歩いて最後尾に行くのを諦め、再度『ゆりかもめ』に乗り一駅前まで戻ることにした。
立って車内から見ると参列待ちの人々の列が、ディファ有明の前の道から橋の上を越え、隣駅までつながっているのがはっきり見えた。

「なに、これ…」
プロレスを知らない妻(よって三沢選手の偉大さも全く知らない)は、絶句していた。
もちろん、三沢選手を知っていて大好きな私も、絶句してしまった。

三沢のために、こんなに人が集まるのか。

実は、それは事前に予想できたといえばできたかもしれなかったのであった。
というのは…。

そのころ私はJR南武線の小さな駅付近に住んでいた。
バブルで開発は進んでしまっていたが、それ以前は駅前に広い梨畑があったり、少し歩くと小規模ながら水田や畑があるようなローカル駅である。

ローカル駅であるけれど、乗換えをして都心まで1時間程度で行けるので、そこそこの人口はあり花屋は駅付近だけでも4~5店あった。

私は駅に向かう途中にある花屋に入って、私と妻用に2千円の花束を2つ注文した。

(つづく)

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2018年12月07日

三沢光春への献花式 [2]

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三沢光春への献花式(2)

「このお花の用途はなんでしょうか?」
と定員さんが訊いた。
どのような包装にするかとか、カードをつけるとかのサービスのためらしかった。

「用途?う~ん、追悼というか、献花式があって、なんというのかなぁ…」
と私がどう説明していいやらウニウニしていると、
「あ、三沢さんですか?」
とその若い女性店員さんが言ったのである。

私はびっくりした。
「え?そうです!三沢選手を知ってるんですか?」
「いいえ、知りません。何かの選手なんですか?」
「じゃなぜ、三沢さんって?」
「今朝から、もう3組も、そうおっしゃって花束を買われてるものですから、そうなのかなと」

3組?私で4組目?
私は、ほんとうに驚いた。

それはそうだろう。
JRローカル線駅の小さな街の、周囲に花屋さんが4~5店もある中の1つの店での会話なのである。

三沢選手が偉大といってもプロレスという狭いジャンルのことであり、プロレスには多くの団体と選手が存在する。
団体を超えて三沢ファンは多いと思うが、やはり他団体ファンで献花式まで来るような人数は限られるはずである。

そのうえ三沢ファン全員が追悼献花式に行くわけでもない。
なのに、私がその一軒の店で、その日4組目の三沢献花式の花束を求めた客なのである。

そういうことかぁ。
私はそのとき、プロレスと三沢選手の底力を実感したのだった。

さて献花式である。
私と妻は2時間以上並んで、少しずつ列が前に進むのを辛抱強く待った。
やっと会場に入ったときは夕暮れが迫っていた。

場内にはリングが設営され、その向こうの正面の壁に大きな三沢選手の写真があった。
胸が痛くもあり熱くもなった。
彼がもうこの世にいないなんで信じられないではないか!

花は献花台だけでなくリングの中にも、こぼれんばかりに積みあがっていた。
私と妻も厳かに献花し、横一列に並んでいるノアの選手役員に深く礼をした。
待って並んでいる時間は長かったが、三沢選手にお別れをする時間は数分であった。

たまたま、その日は以前から塩谷哲(しおのやさとる SOLT)さんのライブがあり、私たちは招待されていて楽しみにしていた。

そのライブのスケジュールが三沢選手献花式を知る前から決まっていたこともあって、私たちはかなり早めに家を出たし、ディファでの献花をしたあとで軽く食事をするつもりだった。

ところが、あまりに追悼者が多かったせいで献花を終えた時刻が遅くなっていたので、私たちは滅多に乗らないタクシーで、ライブ会場に駆けつけることになり、開演時刻に少し遅刻してしまった。

私は塩谷さんの素晴らしいピアノ演奏を聴きながら、
「これは三沢選手を追悼してくれているのだ」
と思い少し涙が出た。

三沢選手を惜しむ気持を包むように、塩谷哲さんのピアノが私の心に響いていた。

(このお題、完)

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2018年12月07日

偉大なるジャイアント馬場

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偉大なるジャイアント馬場

私に手元に、ジャイアント馬場選手の直筆サイン入りの著書がある。
プロレス会場(後楽園ホール)の売り場で買ったものである。
著書名は、【王道十六文】。

この本の内容とか、ゴーストライターだろうとかいう指摘などはどうでもよく、この本を買ったときにジャイアント馬場選手がそこに座っており、私の目の前でサインをし、私と握手をしてくれた、ということが私にとって重要なのである。
ある意味、本のことなどどうでもよい。(言い過ぎ…)

馬場選手といえば、後に病に倒れてしまった。

1999年5月2日の東京ドーム第6試合が彼の引退試合で、
【タッグマッチ時間無制限1本勝負・ジャイアント馬場&ザ・デストロイヤー対ジン・キニスキー&ブルーノ・サンマルチノ】
とされた。

もちろん馬場選手はすでに亡くなっており、追悼式をかつてのライバル選手の来場とともに過去の試合映像で振り返りつつ行ったものである。

私はその会場に居た。
式の最後の10カウント時に、リング上には馬場選手の大きなリングシューズがポツリと置かれていた。
寂しかった。

さて、馬場選手の本を買った年は、彼がまだ現役だった1988年7月である。
日にちは覚えていないが、年月は間違いない。

日記もつけていないし、買った本に買った日付を書いてあるわけでもないのに、なぜ年月がわかるかというと、その日会場に入ったとたん入り口横にブルーザ・ブロディの遺影があるのを見たからである。
そう、ブロディは来日していなかったが、彼がプエルトリコで亡くなった直後の興行だったのだ。
(ブロディも好きな選手だったので項を改めで書くかもしれないが、ここでは書かない)

本を買って馬場選手に握手もしてもらった私ではあるが、それほど会場に行かない私にとって、こんな間近でジャイアント馬場選手を見ることが希少だった。
次がいつかもわからない。

だから写真を撮りたかった。カメラは持っていた。

臨時売店 辺りにはファンが群がり、パシャパシャと無遠慮に馬場選手にフラッシュを浴びせて写真を撮っている。
馬場選手は特に嫌がる様子はなく、そんなことには慣れているという感じで、悠然と本にサインをしたりしていた。

私は馬場選手の写真を撮ろうと、本を抱えて、もう一度馬場選手の前あたりに進んで行った。

しかし、若手選手が数人がかりでファンをやさしく押しのけながら、
「写真撮影はダメです!」
と、あくまで丁寧に怒鳴っているのであった。

当然のことで、そういうファンに対しまったく無制限無防備にしていると会場が混乱する。やはりある程度はファンを制御する必要がある。
だから若手選手が写真撮影を制止しようとしている。まあ半分はポーズみたいなものでもある。

そのときの私も、もちろんそういう雰囲気は感じていた。
当の馬場選手が全然迷惑そうではないのである。
これは「人気者の務めだ」という感じであった。

だから私も写真を撮ってよかった。
しかし私は遠慮した。

私は日頃は慎み深くもないし、有名人がなんだ!という気分のほうが強い。
しかし私にとってプロレスラーは別物である。敬意を表さねばならないのだ。
私の敬意とはこの場合、『生写真を撮る行為を慎む』ということであった。

私は写真を断念し、馬場選手を少し離れたところから、じっと見つめた。脳裏に焼き付けようと思ったのである。
もちろん今となっては私の脳裏に刻んだ映像は消え、変質してテレビ映像で見た馬場選手の姿しか思い浮かばない。

まったく不憫なことである。

かつて若き日の馬場選手が初めてNWA王座を獲得したとき、弟とともにテレビの前でどれほど興奮したか…。
NHKニュースでその快挙が報じられなかったことを、これまた弟とともに強く憤ったものである。
(当時は本気でNHKに抗議文を出そうと弟と話し合った!)

馬場選手、いまさらながらですが、楽しい思い出を感謝いたします。

(このお題、完)

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2018年12月08日

八神純子さんとポプコン [1] (今はダンスでしょ? でも昔はバンドなんだぞ!))

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八神純子さんとポプコン(1)

昨年ライブで聴いた塩谷哲さんの気持ちよいピアノで唄う八神純子の『思い出は美しすぎて』が、すごく心に残っている。

閉演後、私は楽屋のほうで八神さんと握手させてもらったのだが、私はそのとき昔のいろいろなことを思い出してしまい、しどろもどろのことを言っていたらしい。(隣にいた妻の目撃談)

八神さんは私と同じ年の生まれである。
そして彼女は高校在学中の16歳(1974年)のとき作詞作曲した「雨の日のひとりごと」で、第8回POPCON優秀曲賞に入賞した。

翌年の第9回大会でも「幸せの国へ」で優秀曲賞に入賞し、第6回世界歌謡祭で歌唱賞を受賞している。

若くして、すばらしい才能!

というふうに、八神純子さんを礼賛した後で、以下に自分の凡才を書き記す勇気は、我ながらスゴイと思うが、書こう。

私はその第9回(翌10回も)POPCONの広島県大会に、私の作詞作曲で『APPLE』というバンドで出場した。(2年連続県大会落ち)

そう、八神純子さんと私は『同期』なのである。(『同期』をあえて間違って使用してますが、許して…)

彼女は『思い出は美しすぎて』でプロデビューし、『みずいろの雨』でトップアーティストとなった。
その八神さんと直接の縁もゆかりもない私が、あのポプコンの40年後にライブを観た後の楽屋前で握手しているのだから、私の(勝手な)感慨はなんとなくはわかるでしょう?

さてと、ポプコンのことである…。
恥を忍んで書かねばなるまい。。おもしろい(かもしれない)から。

ポプコンは正確には『ポピュラーソングコンテスト』といい、ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテストで、第5回まではプロ対象のコンテストだったが、6回目からアマチュア向けのプロへの登龍門として開催された。

ここからプロになった人たちをちょっとだけ書くと、渡辺真知子さん、中島みゆきさん(1975年)。そのあとに、佐野元春さん、長渕剛さん、円広志さん(1978年)、チャゲ&飛鳥さん(1978年)など豪華な人たちだらけだ。
ちょっと…いやかなり古い(でも偉大な)アーティストだらけだが。

私は中学生の頃にギターを買って練習し、バンドを作った。当時の流行である。
いまならダンスか。

私は市内の楽器店でピアノ運搬のバイトなどをし、その楽器店のピアノ教室の部屋を借りて独学でピアノを練習したりもした。

とても大事なポイントなので先に書いておくが、私には音楽的才能は乏しく、特に歌唱や演奏などの実演部分の才能は皆無であった。【皆無】である。
残念であるけど、しかたない。そういうふうに生まれたのだ。

神様の気まぐれだが、私の悲惨な音楽才能とは違い、私の弟は普通以上に楽器が弾けた。
弟は一回耳で聞くと、だいたいそのままギターやピアノで弾いてしまう。
私が千日練習しても弾けないフレーズをである。

また従姉妹は音大を出てソプラノ歌手になった。

なのに私には、そういう才が『かけら』もなかった。 私は気の毒すぎる。
しかし、私が残念で気の毒なのじは、私に音楽の才能がないことではない。

音楽の才能がないのにバンドを結成して活動をしてしまった、ということが気の毒なんである。

そういう不憫な私であったが、理屈(音楽理論)は理解できたので、曲みたいなものは作ることができた。才能や芸術というより、コツコツと音符で行うプラモ作りのような感じであった。

高校2年のときに、地元でポプコンの県大会が開かれることになったので、恥知らずの10代であった私は曲を作り、バンドで演奏したテープを作り、広島のヤマハに送った。ポプコンへの応募である。

予選はテープ審査のみで行われ、その審査を通過すると広島県大会に出場できるのだ。

予選通過・県大会出場の電話が来たとき私はぶっとんで喜んだが、事態はそう簡単ではなかった。
いや普通なら『事態は簡単→出場してパフォーマンスする』なのだが、我々のバンドには大きな問題があった。
【おそろしく演奏が下手】なのであった。

ただし これは致命的ではない。
なぜなら、ポプコンは楽曲のコンテストであり、テクニックの大会ではなかった。
(テキニックの大会は、ライトミュージックコンテストじゃなっかたかな?)
だから、とり合えず演奏の技術と関係なく、テープ審査で受かったのである。

電話の向こうでヤマハの担当者は、私にこう言った。
「大会まで時間がありません。おそらく練習してもそれまでに演奏レベルが必要なところまで達しないでしょう。この曲は面白いと思うのでヤマハの歌手が歌います。演奏もヤマハのほうでします。バンドでなく楽曲だけで出場してください。というのは、そうすれば全国までいける可能性があるという話になっているんです」

ほほう…。私はそのとき、そのことを深く考えもしなかった。
そもそも他人が歌うなど問題外。我々のバンドでやってこそ意味があるのだ、とだけ考えていたのだ。

「いやです、自分たちで演奏したいです」
私の答えに、電話の向こうは、
「え?」と、さも意外そうであった。

さきほども書いたように『ポプコン』は演奏技術ではなく、楽曲のコンテストなので、こういう場合、そういう申し入れを断る人間はいなかったらしい。

「広島のヤマハとしてもこの曲を推して行きますので、そういうことを言わず、あなた自身のために…」
と私を説得するのであった。私は一切取り合わず、断固として拒否した。

母に後でその話をしたら、
「言うこときけばいいのに…。あんたは一概(イチガイ)じゃけねぇ」
と残念そうだった。

その後も何度かヤマハの担当者に説得されたが、私がそうしてもイヤだというので、
「わかりました。では演奏の特訓しましょう」
ということになった。
出場取り消しの可能性もあったのだが、すでにエントリーも決定しており、ヤマハ側が折れた。

それから週末に広島市から私の町まで担当者が来て、直接指導するのである。期間は大会までの約一ケ月。
我々は土日以外の日にも、当然のこと毎日学校が終わったら集まって練習をした。

ちなみに私はサイドギターで、自分の作った歌だが歌ってない。私が歌ってたらテープ審査で落ちていただろう。(楽曲重視なのに?)

猛特訓!猛特訓!猛特訓!
しかし、さほどの技術向上は見られず…。ついに広島県予選の大会本番の日になった。

(つづく)

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2018年12月09日

八神純子さんとポプコン [2]

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八神純子さんとポプコン(2)

その大会当日。
開催地が地元の市民会館なので、私たちは楽器を荷台に乗っけて自転車で会場に行った。

ドキドキである。
初めての大きなステージだし、当時のミュージシャンが目指したポプコン予選だし、何せ地元である。

ん~、こわい。 こわいぞ!

リハーサルも終わり、本番が始まる。
何番目の出場かは覚えていないが、ついに我々の出番が来る。我々はステージに出て行きスタンバイする。司会者がエントリーナンバーとバンド名と曲名を告げる。
「どうぞ~!」

当時人気のあった『チューリップ』調のポップな歌の始まりだ!(自分で言うか…)

自分が作った曲だから、私は今でも憶えているし、唄える。絶対に唄わないけど。

私はこのときのことを思い出すと、今でも楽しくてしかたないが、同時にとても苦い感情も持っている。

予選会には色々なタイプの出場者がいる。バンドもあれば一人で演じるいわゆるシンガーソングライターもいる。
楽曲だけ書いてプロ歌手に歌ってもらうというものもある。(これが私が提案された形式)
だからステージにはヤマハ楽団(十数人?)がいるのである。

もちろん、バンドの演奏のときや弾き語りのようなときには、彼らは演者の後ろの闇の中でじっとしている。
曲によっては手拍子だけして盛り上げる演出もする。

大会直前の練習の後、特訓の担当だったヤマハのミュージシャンの人は、暗い顔をしていた。やはり我々の演奏が最低レベルにも達しないからである。

「このままじゃぁ、ちょっと…。君たちの後ろでヤマハも演奏することにしよう」
「していい?」とかではなく「する!」という決定口調であった。
不本意ではあったが、我々のバンドがステージで演奏することには変わりない。多少のヤマハの【補助】があっても、だ。

そのようないきさつの中での本番であった。
リハーサルのときから、なにやら、
「バックにいる【補助】のヤマハの演奏が本格的だなぁ」
とは感じていたが、自分たちが失敗せずちゃんとパフォーマンスできるかどうかで我々は頭がいっぱいであったから、そんなことは気にしていられなかった。

無事?、我々の本番での演奏は終わった。
私は司会者に呼ばれて話を聞かれ、どこがどうはまったのかわからないのだが、会場を大爆笑させるコメントを発して爪跡を残したのだが、いうまでもなく『お笑い大会』ではないから、無意味である。

結果、我々は当然のごとく予選落ちした。
その結果には失望はしたが、特訓を課せられるというマズい状況下で、なんとか自分たちの演奏で自分たちの楽曲を披露でき、それなりに満足していた。

我々はまだ若かったし、音楽は音楽医的才能でなく、努力でなんとかなると夢想したりできるお年頃だったのである。

友人が会場にカセットレコーダーを持ち込んで、我々の演奏を録音していたので、あとでメンバー揃って、それを聴いた。
(後日、ヤマハが録音したテープをもらったような記憶もあるが、はっきりしない)

会場に座った友人が膝の上に乗せたカセットレコーダー本体についているマイクで録音したため、色んな雑音も入り音質もひじょうに悪かったが、そのとき初めて客観的に自分たちの演奏を聴いたのだった。

「ん?」
「あれ?」
なんか変である。

ボーカルの声は聞こえるのだが、我々の演奏が聴こえない。聴こえるのはヤマハ楽団の演奏のみである。
厳密には我々の演奏音も聴こえるのであるが、列車が通過するガード下で鳴くコオロギの声くらいの感じである。

我々バンドメンバーは唖然とした。暗然ともした。
そして猛烈に恥ずかしい気持が襲ってきた。同時に多少の怒りも感じた。
あの特訓はなんだったのだ!
なんだった?
ムダだった。それだけのことだ。

どうやら、我々の演奏音をミュートするという、 『大人の判断があった』らしい。

我々はひどく落ち込んだが、なにしろ若かった。
我々は発展途上である!と自然に思うことができた。
「よし、来年に向かって練習だ!」

翌年も私が曲を作り、テープ審査で県大会に出た。

そのときは…書くのも怖いが(今だからやっと書けるが)、私がピアノを弾きながら歌った。自分の曲だし。
もちろん、今度は我がバンドもちゃんと演奏した。 見事に予選に落ちた。

そういう経緯があって、40年後に私は、同時期にポプコンからスターになった八神純子さんと握手していたのである。
多少の感慨以上のものがあって当然だろう。

ライブ会場から駅まで、妻と歩いた。
「あれが『同期』の八神純子(さん)だ。テレビじゃなく実物見れただろ?」
と私が言うと、すぐ妻に容赦なく突っ込まれた。
「『同期』? ひゃはははは…(爆笑)」

笑うがよい!
妻も、世間も!

私だって今は、こだわりも恥ずかしさもなく、思い出してもただただ懐かしくて楽しくて、ちゃんと当時の自分を笑えてるんだから。 わはははは!

(このお題、完)

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2018年12月09日

ティアーズ・フォー・フィアーズ のライブ [Tears for Fears] (私のミューズは、やっぱTさんなのかな)

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ティアーズ・フォー・フィアーズ(Tears for Fears)

1980年代にも、良い曲がたくさんある。
でも、1980年代の以降の名曲をいくら並び立てても、私自身はドキドキしない。
やはり10代までに聴いた音楽はそれ以降に聴いた音楽とは何かが決定的に違うのである。

その中で、ティアーズ・フォー・フィアーズ(以下TFF)だけが、ちょっとドキドキする。

理由は単純で、1985年7月に東京厚生年金ホールでのTFFのライブを、高校のときに付き合っていた女性(姓でなく名の頭文字が’T’)と観たからである。(そのとき我々は27歳になっていた)

Tさんは広島に住んでいた。
そのTさんに、
「TFFが観たいから夏に東京に行く。チケットをとって」
と頼まれたとき、私はTFFのことを知らなかった。

TFFは『シャウト』『ルール・ザ・ワールド』と世界的なヒットを連発し、日本ツアーに来ることになっていたのだが、私はコンピュータゲーム開発を職業にするようになっていて、すごく忙しかった。

それとそのころには、もう新しいミュージシャンや最新の楽曲にアンテナを立てているということはなくなってもいた。

ティアーズ・フォー・フィアーズねぇ。

私はすぐアルバムCDを購入し聴いた。
「ああ、これは好きだ」
すぐ、そう感じた。

他人の好きなものを自分が好きになる(あるいはその逆)ということは滅多にない。
だから、そういうことを人生の中で望むのは根本的に間違いだと、私は思っている。

が、たまたまそのとき私は、Tの好きなものを気に入った。
そのことに特に意味はない。偶然というだけのことだと思う。

それから私は、TFFを日課のように聴いて過ごした。
そして7月の公演になり彼女が東京にやってきた。

ライブで、彼女はノリノリだった。
「こんなに騒ぐ人間だっけ?」
驚いたというより、ちょっと意外だと思った。

ライブの後、新宿のどこかのカフェかバーかで長く彼女と何時間も話をした。話した内容は一言一句も記憶にない。不思議だ

その数十年後。私は東京で行われるプチ同窓会に出た。
私は一度もそういう会に出たことがなかったが、そのときは、Iさん(女性)から誘われたため断れなかった。

Iさんは私にとって特別なのである。
私は初めて(東京での8名程度の)プチ同窓会に出席した。 その同窓会(飲み会)でIさんと色々話している時、TFFのライブを一緒に観た女性Tさんの話題になった。
IさんはTさんと大学の同窓なのである。いっしょに通学していた時期もあったらしい。

「あ~、付き合ってたことあるんだ。綺麗な子だったもんねぇ。私もそんなに深い付き合いじゃなかったし大学の後はほとんど会ってないけど」

私はTさんについて、細かなことは言わなかった。
ただ高校のときに付き合っていたこと、その後時々会ったことがある、くらいに話した。

「そうだ!Tさんを探してあげようか?」
私は母や伯父が亡くなった後は故郷と縁もなくなっていたが、Iさんは東京在住だが度々帰郷して故郷の諸事情にも明るかったのだ。

「探す?」
考えたこともなかったが、そうか探せるかもしれない。彼女の実家がわかるんだから。そこから情報を得れることもできるし、友人関係も辿れるだろう。

「ははは、いいよ」
「会いたくないの?」
「会いたくないことはない。会ってみたいし話もしてみたい。今ならできる話もあるかもしれない」
「じゃあ、探そうか」
「すごく会いたいから、やめとこう」
「ほんとにいいの?」
「ほんとにいいよ」
「そうかぁ。わかった」

その話は、それきりである。

私はときどき仕事の手を止めてパソコンの作業ウインドウを閉じて、YouTubeで登録してある『昔よく聴いた曲』を聴く。

TFFは、その登録リストに入れていない。
入れてないのは、ちょっとおかしい。おかしいとは思うが入れられない。色々思い出すからだ。

それでも80年代の楽曲を観ていると、そのつながりでTFFが意図せず画面に出てくるときがある。
「おっ…彼女(Tさん)の曲だ」

『シャウト』『ルール・ザ・ワールド』の2曲は、いまでもどうにも不思議な気持になる。
ほかのどんなに好きな曲でも、そんな気持にはならない。
TFFの曲は、私にとって、Tさん、そのものなのである。

みなさんも、そういう『特別な曲』があるでしょう?

(このお題、完)

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2018年12月10日

ジーザス・クライスト・スーパースター [1]

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ジーザス・クライスト・スーパースター(1)

子供の頃から組織勤めをする気のなかった私は、大学では「哲学」か「宗教」を専攻しようと決めていた。
哲学でも宗教でも、人間や文化や歴史と切り離せない。重なる部分が多い。

宗教は【超越者】が前提だが、哲学だって【超越者】を想定する。
異なるのは論理の帰結と関係なく【超越者】を『信じるか信じないか』の違いである。
(大雑把すぎるが、そんな感じ)

哲学はたぶん書籍(論理)だけでもある程度理解できる。
しかし宗教となると実際の人間や実際の生活や実際の儀式というものが切り離せない。
哲学でも実践の重要性を語ることがあるが、極端なことを言うと哲学では実践がなくともよい。論理で終始できないこともないからである。

が、宗教では実践が(宗教というものの定義上からも)必須である。

となると、せっかく大学に行くのなら宗教を学んだほうがいいだろうと、私は考えた。
大学というところには、一般社会には少ない【施設、人間、儀式の場】があるだろうからである。
もっとも宗教を実践をするつもりはまったくなかったが。

とはいえ、宗教を学ぶなら哲学も学ぶことになる。哲学を学ぶなら宗教学も学ぶことになる。

大学での最初の授業は、『宗教的経験の諸相』(W・ジェイムス著)の読解であり、私は今でもその本を持っている。(読まないけど何故か捨てていない)

ウィリアム・ジェイム(1842~1910年)は、米国のプラグマティズムの哲学者、心理学者で、プラグマティズムは実用主義、道具主義、実際主義とされる。

大雑把に言えば、
「現実社会に有効じゃないものに意味はなかろう」
みたいな『米国の哲学』である。(私の勝手な解釈)

と、偉そうに書いてみたが、私にはそれらについて説明する能力も意志も興味も気力もない。

ともかく大学で宗教を学べば哲学も『ついてくる』と思ったので、私はキリスト教を学べる大学に進んだ。
仏教専攻でもよかったのだが、そのころは私はまだ子供だから仏教は『古臭』く感じた。

キリスト教だって十分すぎるほど古臭いのだが、日本では生活に根ざしていないぶんなにやら、私には新しかった。(まあ誤解である。十戒でなく。…オヤジギャグ…)

私は 英語が好きで、勉強のために英語と日本が併記されている聖書を読んでいたからキリスト教に親近感があったのかもしれない。
また小学校の前に教会があり、クリスマスなどに遊びに行って菓子をもらったりしていたことも、キリスト教選択の一因だったかもしれない。

私には個別の宗教に対しての信仰心は一切ない。まったくない。
人間には様々な『体質』があり、たぶん『宗教的体質』というものもある。それが私には、ない。

子供の頃から普通の人より少しだけ余分に宗教に関心があり、書物を読んだり実際の宗教的団体に参加してみたが、ほとんど精神が啓発されることがなかった。そういう不幸な体質なのである。

普通の宇宙的な、あるいは人間存在に根ざしたような感覚での宗教心みたいなものは、私にもある。とはいえ、そういうものなら結局は誰にでもあるだろう。
神社でついお願いしてしまうとか、山頂でつい真剣に太陽を拝んでしまうとか、そういうものだが…。

音楽の話をする前置きではないが、こういう「説明」を少ししておかねば、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の話はしにくい。
やはりトラディショナル名解釈と相いれなくとも、宗教映画の側面もあるからである。
そして、この作品のバックボーンは当然『キリスト教世界』だからだ。

言うまでもないのだが、『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (Jesus Christ Superstar 以下’JCS’と略す) は、ロックミュージカルで、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いている。

(つづく)

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2018年12月11日

ジーザス・クライスト・スーパースター [2]

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ジーザス・クライスト・スーパースター(2)

私は大学1年生のとき(1979年)に、池袋の小さな映画館の狭くて人のまばらな地下映写場で、映画版(1973年ノーマン・ジェイソン監督)を初めて観た。

大学の1年生だから授業はまだ一般教養課程が主であるが、キリスト教学科なので学校で宗教やら哲学やら語学やらを学んでいる。
もちろん、私は中学生の頃から、宗教や哲学一般に関心があって、ずっとその手の書物は読んでいた。

そういう多感な時期の鑑賞であった。

映画版JCSは、とても面白くて真摯に作られている素晴らしい映画なのであるが、一般的な生真面目な宗教観を持つ者が観れば大憤慨ものだろうなぁ、と、当然ながら私も感じた。

そもそもイエスのことを、
「Hey JC」
と呼ぶ。

ん~、どうなんだろ?
う~ん、でもまぁフレンドリーだ!フレンドリーすぎるぞ!

登場人物の服装も、イエスやピトラや司祭たちは一応は古典的イメージにしてあるが、あとの登場人物は、12使徒も含めステキな【ヒッピー】である。
当時のアメリカの若者文化というか若い世代の流行風俗の影響下にあるわけだろう。

「それにしたって…(見方によれば)これは不真面目で不謹慎すぎる」
と私は感じた。私にも一般常識みたいな感覚は十分にあるのだ。

それはそれとして、もう一方では、
「おお、いいぞ!いかす、いかすぞ!!」
である。

私はそのときにその映画を続けて2回観た。翌日も観た。
最初は同じ学科のクラスメートと観に行ったのだが、彼の体質には合わなかったようで、その映画を何度も観ようとする私を不審に思っているようだった。
まあ、わからないではない。

それから私はすぐサウンドトラックCDを買った。その後、映画のビデオも買った。
毎日というほど聴きすぎて飽きてしまうほどになったので、その後は1年に1~2回集中的に聴いては、その後は忘れてしまうということを繰り返した。

それでも一人で車を運転するときは、CDをかけて大声で歌った。
(私がいっしょに歌うと、この名作ミュージカルは芸術的には台無し…。

「生まれ変われるなら歌がうまい人間に!」
というのが切なる願いの私にとって、 テッド・ニーリー(イエス役)の歌は圧巻。
特に『ゲッセマネの園(Gethsemane)』の絶唱は、聴き惚れる。

彼が歳をとってから(70歳くらい?)の彼の舞台での歌唱を動画で観たことがあるが、それもすごかった。
小柄なんだが、どこからあの声が出てるのか?

サウンドトラックの全曲好きなのだが、もう一つ挙げれば『イエスは死ぬべし(This Jesus Must Die)』 が好き。
高音(アンナス)と低音(大司祭カヤパ)の掛け合いがいいなあ。
陰謀的で。『的』じゃなくて陰謀そのものなんだが。

このシーンは(この映画だけでなく神学的にも?)ストーリーとして大事なところで、イエスは殺されて死んでこそ、復活して愛のキリストになるので、とにもかくにも『殺してもらわないと』困ってしまうんである。

実際に死刑にするのはローマ総督のピトラだが(彼もそんなことしたくなかったが)、大司祭たちがその『イエス殺害道』を作っていく意志を露にするという場面である。

彼らはイエスを殺そうと画策する【すごく悪いやつら】なんだが、(ユダもそうだが)、『全部が神の計画』なのだから彼らはイエスの(というか神の演出の)補助者でもある。

「自分の意志だけど、やってるんではなく、神にやらされてるんでしょ?」
って誰でも思う。

このあたりの機微は【宗教】なので、
「そういうものなんだ」
と思うしかないし、思えないと登場人物の行動が理解できなくて苦労する。

でも気にすることはない。キリスト教内部でも、
「それってどうなのよ?」
というのを(神学論的な問題を)長い時間をかけて話し合って、
「こう理解することにしよう」
と(人間が)決めてきたのだから。

キリスト教は西洋文明に不可欠な大きな大きな骨子の一つである。
我々日本人が無意識に仏教的、神道的、道教的なものを含んだ文化を保持しているのと同じで、好き嫌いを超え、理解していようが誤解していようが関係なく、キリスト教は西洋文明の根っこにある核なのだ。

人間はどんな文化の違いがあっても、そこそこ日常的な有効なレベルで相互理解できると私は信じるが、この根っこの違いを意識していることが、相互理解へ至る(あるいは至れなくとも相互不信を回避する)手順にとって重要なのだと思う。

(私は宗教や文化について語る能力はないので、このへんで…)

信心も知識もないけれど、『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、私には賛美歌と同じなのである。…その前にロックだけど。

(このお題、完)

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2018年12月11日

バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [1]

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バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (1)

『夏が来ぅれば思い出すぅ~』という歌がある。
そう、私にも忘れられない【夏の思い出】がある。

遠い昔の中学生の夏のことである。
その『不思議な経験(普通の意味での怪奇現象とは全く違う怪奇現象)』をうまく伝えられるか心配なのだが、書いてみたいと思う。

夏休みにバレーボールの県大会出場をかけた地区予選が、瀬戸内の島にある中学校の校庭で行われ、私たちは2位となって、念願の出場権を手に入れた。
たしか、万年弱小であった我が中学のバレー部としては、初出場の快挙だったと思う。

読んでいる人はスルーしてしまったかもしれないが、バレーボールという競技の大会が『校庭』で行われていたのである。

「炎天下なのに野外の校庭で!?」
という驚きではなく、
「バレーボールを野外で? 島で開催された大会ということはビーチバレー?」
という疑問を持ってほしいのだ。

もちろん、そのころ(数十年前の遠い昔)、ビーチバレーという競技など、まったくない。
そういう競技がオリンピック競技になるなど、当時口走れば、狂人と思われただろう。
(大袈裟じゃないぞ)

今では、バレーボールは体育館で行うスポーツであるというのが常識なのだが、私が中学生だったころは、(地方でもあったし)どこの中学校にも体育館があったわけではなく、野外スポーツであった。

ぼんとかよぉ~?
ホントです!

広島市内などはどうだったか知らないが、広島県内の中小都市では、ただいたい高校にならないと体育館というものがなかったのではなかろうか。

バレーボールを野外でやるというのは、悲惨である。
夏だから暑いというのは、べつによい。陸上なども、野外で行われるし。

問題の一つは、風雨である。
雨はもうどうにもならないが、天気が良くても風が強いと、軽いバレーボールは空中で数メートルも位置移動する。
サーブはゆらぐ魔法球となり、トスやパスは物理学が必要(風力風向によるボールの移動距離を瞬時に計算)になる。
ようするに、自然の中では、まったく競技として成立しなくなるんである。

もう一つの問題は、擦り傷である。
バレーボールでは、『フライング・レシーブ』というものがあり、体を地面に水平に空中に投げ出して、手でボールを拾い、そのあと胸から地面に着地するものだ。

体育館の床だと、摩擦熱で火傷のようになる時があるくらいだが、これが野外の地面だと、胸と前腿と前腕(…まれにアゴも)は擦り傷で血だらけになってしまうんである。

もはや、苦行であって、スポーツではない。
私の太もも前側は、擦りむきすぎて、そこだけ体毛がなくなってしまっているほどだ。
う~ん、こわいぞ。

とはいえ、それが当たり前の時代だから、我々にはそれを回避する思考などはなく、胸に分厚い布を縫い付けて、堅い土の上でフライングレシーブをしていたのであった。

とまあ、そういう時代のそういうバレーボール事情であった。

それはともかく我々は県大会出場が決まり、歓喜した。
夏休みの後半に、三次市で県大会がある。それも高校の体育館が会場となるということだった。

「体育館でやるんじゃそうじゃ」
「どんな感じなんかのう」

体育館での試合や練習が皆無というわけではなかったが、ほとんど経験がないので、我々のチームは少し不安でもあったし、楽しみでもあったわけだ。

(このお題、つづく)

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2019年08月01日

バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [2]

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バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (2)

夏休みなので毎日午後から、我々は中学バレーボール県大会に備えて、炎天下の野外のコートで猛練習を重ねた。

真夏なので気温は30度を軽く超え、ほぼチーム全員が軽い日射病状態で(当時は熱中症という言葉はない)あったが、その時代には、そんなことお構いなしであった。軽い日射病(熱中症)などは気力体力で抑え込まねばならないのだ。

要するに、暑い中での苦痛に耐え、激しいスポーツで青少年の心身を鍛えるという(誤った)考え方が、一般常識みたいなものだった時代である。

なんか、書いてて怖いぞ。

そういうわけで、今では完全な室内スポーツとして認識されているバレーボールではあるが、そのとき中学生であった我々生徒は、生命体に強力な害を与える紫外線を全身に浴び、チョコのごとく褐色に日焼けして、土の上を転げまわっていた。

今では考えられないことだが、
「水を飲むな!(正しくは飲みすぎるな)」
という愚劣な精神論が、信じられていたんである。

よく、誰も死ななかったものだ。
(※日本全体規模では、そういう炎天下のスポーツで、そのころ相当数の死者が出ていたのではないか? 全国的なニュースにならないだけで…とか思ったり)

さて、県大会当日の朝。
遠征となるため、移動用のバスが用意されていた。
なんかスゴイぞ!

ところが、バレーボールにおいてチームの要であるセッターのO君が、いつまでたっても集合場所に来ないのであった。全くの『無断欠席』で、なんの連絡もなくである。
心配した先生が彼の家に電話をかけても、誰もでないということだった。当時は家電話しかないので、それ以上のコンタクトは不可能である。

そして、我がチームのセッターが来ないまま、バスは出発してした。

初めて訪れる他都市での初の県大会出場というだけでも、かなりのプレッシャーであるのに、肝心要のセッター不在なのである。
そしてセッターのO君は、キャプテンでもあったのだ。

バスの中は、重苦しい雰囲気に包まれてしまった。

「あいつ、急病かのう」
「病気なら病気で、学校か先生に連絡が入るはずじゃろ」
「それにしても、最後の大会なのに、3年間練習してきたフォーメーションの中心のセッターがおらんかったら、どうなるん?」
「…」(全員重い沈黙)

そうなのだ。
部員が少ないのと、地味なセッターを誰もしたがらないということで、(名目上のサブのセッターがいるにはいたが)、不在のO君がチームにおける唯一のセッターであり、すべての攻撃の練習は彼とのコンビネーション、彼の上げるトスで行っていたのであった。

あとでわかったことだが、O君は、その日なんと、私立高校の受験(あるいは面接)に行っていた。
高校の受験日は年間スケジュールであり、数か月前から申し込むので、当たり前のことだが、その当日、急に試験日に決まるわけではない。

そう、彼は県大会の日と、高校受験日が同日であることを前々から知っていたはずだ。
彼は前日までキャプテン、セッターとして練習に参加していながら、当日になってチームを見捨てたのである。

後日それを知ったとき、私を含め、部員全員が怒り狂った。
それはそうだろう。こんなヒドイ話はなかなかなかろう。
(今は、「おもしろい逸話を作ってくれて、ありがとう!」と思っているけど)

ただ、O君にも事情があった。
彼はもともと、その私立高校の受験をするつもりはなく、受験申し込みの準備などは親が勝手に進めていただけだった。
彼は県大会に出場すべく、我々部員とともに前日まで猛練習し、
「明日は頑張ろうぜ!」
と、キャプテンとして部員を鼓舞していたのである。

しかし、前日の夜か、当日になって、彼は親に説得…いや、強制され、我々との3年間を捨てて、親の望む私立高校の受験に(自分の意志でなく)行かされたわけであった。
(今は、そう考えて、「彼も苦悩したのだろう」とか同情できたりする)

とはいえ、中学生にそういう世間や大人の事情を理解しようという気分はなく、次回書くような恥辱に満ちた?試合内容と悲惨な試合結果になったということもあり、当時の我々部員はO君を許せない気分だけが強く、卒業までギクシャクした関係のままであった。

バスで移動しているときの我々は、そういうO君の事情はなにもわかっていない。
ただただ、『セッター不在で、どうやって試合を組み立てるか』を考えていたわけだが解決策などあるわけもなく、
「どうしようもなぁ。こうなったら、やけくそじゃ!」
という気分であった。

「一切、音を立てるな。敵の 駆逐艦に発見されるぞ!」
と、艦長が隊員に指示している海中の潜水艦内部のように静まり返ったバスは、数時間後、試合会場(体育館のある県立高校)に着いた。

(このお題、つづく)

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2019年08月02日

バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [3]

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バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (3)

「おお、でかい体育館じゃ!」
体育館でバレーボールをしたことがほとんどなかった、哀れな弱小中学バレー部員の我々は、近代的な体育館の内部で思わず声を上げていた。

体育館のフロアには2面のコートが設置され、県内から勝ち上がったチームで予選が行われる。
我々の一回戦は、最初の2試合のうちの、ひとつであった。

「おお…すぐ試合かよぉ。ドキドキするのう」
「ともかくMをセッターにして、少しポジションとか確認せんと、どうにもならんぞ」
「ほうじゃ、ほうじゃ」

この話に、部活顧問の先生が登場しないのに不審を感じられる方もおられるだろうが、形式上はともかく事実上、そういう存在はいなかったので出てこないのである。
この県大会遠征に付き添いで来ていた先生は、バレー部とは関係ない先生であり、我々は試合については自分たちですべてを決定しなければならないのであった。

良く言えば、『生徒の主体性を重んじたスポーツ教育』であり、悪く言えば、『指導者のいない烏合の衆』であった。
そのうえ、セッターでキャプテンのO君もいないわけだし…。

さて…。
試合前の練習の時に、我々の対戦相手のチームを見ていると、我々との実力差は、さほどなさそうだった。
「おい、あいつらなら、勝てるかもしれんぞ」
「そうじゃのう。くじ運に恵まれたようじゃ」

隣りのコートの別試合の広島市内の強豪チームの練習に目をやると、もはや我々とは雲泥の差というか…、体格も同じ中学生と思えないほどデカイ者もおり、技術も卓越していることも一目瞭然で、とても彼らと戦う気にさえならないのであったが、それに比べれば、対等な試合ができそうな相手だった。

「ああいう、強豪チームと違うけぇ、こりゃワシらでも、勝てるでぇ!」
そういう意気込みで、試合に臨んだのであった。

部員全員の中学時代の青春エネルギーを全注入した、我が中学校の県大会初出場の記念すべき第一戦は、あっさり2セットを連取され、たったの25分で終わった。2セットもあるのに、25分…。

相手チームは確かに弱かったのだが、こちらはそれ以上の弱さであった。
緊張で金縛りになり、正セッターのいない我がチームは、まともなプレーが何もできず、サーブもアタックも、レシーブもほとんど失敗の連続であった。

まず、体がこわばってしまい、全員サーブが入れられない。
しょうがないので、我がチームのサーブは、全て『アンダーサーブ』となった。
「上から打ってサーブしたら、どこに行くかわからん。入れときゃええ。下から軽く打って、ともかく入れるんじゃ!」

これは相手チームにゆるいチャンスボールを供給するだけのことであり、強くもない相手チームでさえ、綺麗にレシーブをし、いい感じのトスがあがり、そこそこ強烈なスパイクを打ってくるのであった。

バレーボールは、『まず、相手をサーブで崩す』のが鉄則だが、『相手に攻撃しやすい甘いボールを与える』というのだから、とんでもないことである。
が、こちらがサーブをほとんどミスするのだから、相手にチャンスボールを与えて相手がミスするのを祈るほうが良いのであった。

とはいえ、その初心者の小学生がするようなアンダーサーブでさえ、3本に1本はネットにかけてしまうという、金縛りの悪魔にとりつかれた我々であった。

が、問題はサーブだけではなかった。
そもそも、相手サーブをほとんどレシーブもできないのだ。
一つの要因は緊張であるが、もう一つの理由は、試合会場が体育館なので周囲に壁や天井があるため、距離感が狂ってしまっているからでもあった。

いつもは遥かかなたにある青い空と白い雲がなく、すぐ頭上近くに鉄骨の天井がある。
普段の練習時の周囲の光景は、遠くあちらにサッカー部、こちらに陸上部などの開放感あふれる野外なのだが、県大会のその場所は、牢獄のような四方を壁で囲まれた息苦しい空間なのである。

我々はそういう会場のストレスとも、闘っていたのであるから、試合どころではないのだ。

そういう精神的プレッシャーに打ち勝って、なんとかレシーブができても、正セッターがいないのでまともなトスは上がらない。
かろうじてトスらしきものがあがっても、我がチームのスパイクはことごとくネットにぶつけるか、コートの外の…といってもライン付近とかではなく、打った瞬間から失敗とわかる大飛球で、ボールを体育館の壁にぶつけてしまうのであった。

私もそういうチームの勢いに引っ張られ…、いや私が悪い方向にチームを引っ張ったとも言えるが…、私には細かな技術は無かったがパワーはあったので、体育館の天井近くの窓まで、力いっぱいのスパイクを何本も放ったのであった。

大きな打撃音とともに、壁や天井めがけて飛んでいくバレーボール!
すでにスポーツではなく、体育館破壊活動!

すごいぞ、三中男子バレーボールチーム!

相手チームは、自分たちの手の届かないところ(壁とか天井とか)に向かって炸裂する、我がチームの攻撃をただ呆然と見ているだけで、どんどん点になるのであった。

もはや、これは、まったく違う競技!

そして、1セット目の途中からは、サーブだけでなく、我々チームは攻撃(スパイク)することも諦めた。
「なにをやっても失敗ばかりじゃ。もう攻撃はするな。なんとかレシーブして相手コートに(相手にとってのチャンス)ボールを返すことだけ考えるんじゃ!」
という悲しみのあふれる作戦?を採用したのだった。

が、当然のこと、そういう作戦になんの効果もなく、いや…そういう作戦のおかげで、我々は記録的短時間で1回戦敗退をしたのであった。

(このお題、つづく)

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2019年08月03日

バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [4]

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バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (4)

県内の中学校が多数参加している県大会は、2日間の日程であった。

恥辱に満ちた試合内容と敗退の事実を書いた後で言いづらいのだが、我々は勝ち進むことも予想し、翌日の準決勝や決勝戦に備えて、その日は宿泊することになっていた。

ということで、歴史的大敗をした後は、他校のバレーボールの試合(我々の試合はバレーボールではなかったから…)を観戦して、夕方旅館に入った。
いかにも合宿や研修に使われそうな建物の造りで、他の中学校も複数宿泊していた。

我々は、20畳くらいの仕切りの襖を外した長方形の部屋をあてがわれた。
そこで食事をし、寝床もその部屋に布団を敷くのである。
我々は各々、自分の場所を確保して、荷物を置いた。

さすがに中学生なので、屈辱の敗戦から半日経過すると、もう試合のことは忘れていた。
買ってきたお菓子を食べたり、ふざけあったりして、もはや修学旅行気分である。

夕食前に、2~3人ずつ、風呂に入るようにと旅館から指示があった。
大浴場には他校が入っているらしく、我々は小さなほうの風呂場を使うことになったので、数人ずつ入浴するのである。

私は、現在でも付き合いのある(共に高校卒業までロックバンドも組んでいた)親友Fと、後輩の2年生の3人で風呂に入った。
湯船は2人入れないことはないが、ぎゅうぎゅう詰めになるので、順番に1人ずつ、ゆったり浸かるしかなく、残りの2人が洗い場で体を洗うことにした。

最初にFが湯船に入って、私と後輩の2人が、洗い場で頭や体を洗った。
「今日の試合に初めからワシを出しときゃ、もっと試合らしゅうなったんじゃ!」
と、Fが湯舟の中で白いタオルを使いながら言った。

「なに言(よ)うるんなぁ。お前が試合に出てからも、いっこもスパイクが決まらんかったじゃろうが!」
と、私は応酬した。
「あれは、お前らのせいじゃ!」
「しゃあなかろうがぁ、作戦なんじゃけぇ!」
「何が作戦じゃあ!」

Fが怒っている気持ちは、私にはよ~く分かった。
彼は、(普通とは違った意味での)『すごいプレー』をしていたのであった。
それで機嫌が悪かったのだ。

というのは…。
試合中、プレーの失敗続きで委縮してしまい、前述した消極的すぎる作戦(攻撃はせず、ともかく相手コートにボールを返すこ
とだけに専念)を採用した我がチームであったが、Fに対して、たまたまかなり良いトスが上がった。
打ちやすそうなトスが上がったので、Fは、
「しめた!」
とばかりに、すでに助走からスパイクの体勢に入っていた。

Fの頭の中のイメージでは、空中に高く跳びあがったFが、目にも止まらぬスイングでボールをひっぱたき、そのボールが相手選手の数人を吹っ飛ばしてしまう!という妄想が描かれていたに違いない。

そんなの、絶対に、妄想でしかないんだが…。

Fの妄想はともかく、作戦(相手コートにともかくボールを返して相手のミスを待つ)を遵守したい我々は全員で、
「ばかぁ! 打つなぁ! ともかく相手に返すんじゃぁ!」
と叫び、それを聴いたFは空中でスパイク動作を断念し、スパイク動作を途中でやめたため、へんな体勢になって着地した。
そして着地したFの頭には、上から落ちて来たボールが当たり、コートの外に落ちて転がったのだった。

レ・ミゼラブル!

(このお題、つづく)

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2019年08月04日

バレーボール県大会、敗退の夜の怪 [5]

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バレーボール県大会、敗退の夜の怪 (5)

強烈なスパイクを相手コートに突き刺すはずが、お笑い大道芸のようになってしまった自分の失態を思い出して、Fは怒っているのであった。

そんな言い合いをしながらも、最初に決めたローテーション通りに、Fが湯舟から出て、私が湯舟に入った。
バレーボール部員だから、そういうローテーションによるポジション移動は、きちんとしちゃうわけであった。

「まぁ、えかろう。もうすんだことじゃ。明日は強いチームの対戦を気楽に見とりゃええし…」
私がお湯の中でゆったりした気分でそう言ってると、洗い場で座っているFが、キョロキョロして何かを探していた。

「どしたん?」
「体を洗おう思うとるんじゃが、タオルがなあ」
「ないわけなかろうがぁ。さっきこの湯舟の中で、おまえはタオルで首とか顔とか、こすっとったでぇ」
「そうなんよ。さっきまで、あったんよ」
「そしたら、おまえ湯舟の中に忘れて出たんじゃ…」

私は、自分が浸かっているお湯の中を覗き込んだ。
白い布切れが、お湯の中でユラユラを揺れていた。
なんだ、やっぱり…。

私は、その白い布切れをつかんで、お湯から出した。
「ほれ、これじゃろ?」
と、Fに向かって、それを突き出した。

「?」
「!?」
「!」

風呂場の3人は、私のつかんでいる白い布切れを凝視していた。
全員が感じた、妙な違和感…。

私は自分の手の中の布切れを広げて見せた。

「あっ!」
と、Fが絶句した。

それもそのはず、それは白いブリーフであった。

「なんじゃ、こりゃ!」
と、私は思わず叫んだ。
タオルと思っていたものが、パンツだったんである。

「こりゃ、ワシのパンツか…」
と、F。
「おまえの? なんで、ここにおまえのパンツが?」
と、私。

考えられることは、こうである。誰でも、こう考える。

Fが、着替えの下着をタオルに包んで脱衣所まで持ってきたが、タオルとそれにくるまれたパンツを、気づかずそのまま両方風呂場の中まで持ち込んでしまった、ということである。

私は湯舟の中を再度覗き込み、両手でかき回して…といっても透明な湯なので見るだけでわかるのだが、あるはずの『タオル』のほうを探した。
私は、Fが湯船の中にいるときに、自分の顔を白い布でゴシゴシしているのを見ていたからである。

そのタオルは、どこに?

3人で、狭い風呂場の中をくまなく探したが、タオルはなかった。
どこにもタオルはなく、濡れた白いブリーフがあるのみであった。

Fは脱衣場で脱いだ服などのカゴも調べて戻ってきたが、
「タオルは、なぁ」
と、首を振った。

「どういうことじゃ? おまえのタオルは?」
「…わからん。なんでないんかのう」
「ちゅうことは、おまえはパンツだけ風呂に持ち込んで、そえで顔をゴシゴシ…」
「うるさぁ! パンツは新品じゃぁ」

数十年たった今でも、この謎(タオルはどこ?)は解けていない。

10年に一度くらい、私は飲みの席でFに、この話をする。
からかうためである。

普段は、そういうからかいをイヤがるFであるが、この話になると、素直に、
「あれは、なんじゃったんかのう…」
と、神妙に遠い目つきをするFなのであった。

真の意味の当事者である彼にとっても、それはいまだに、真夏の夜の夢なのだ。

ほんと…、あれはなんだったのだろう。

その夜、大きな和室に布団を2列に敷いて、我がチームは就寝した。
昔のことでもあり、風呂で使った濡れたタオルなどを干すために、部屋の隅に細いビニール製のロープが張られていた。
これも昔だからだが、カラフルなタオルというものはなく、みんな各自の白いタオルを干していた。
寝ていると頭上にそれが、見えるのである。

そのタオルの群れに混じって、ひとつ、白いブリーフが干されていた。
Fの、あのパンツである。

私はその不思議な光景が、今でもどうしても忘れられない。
そして思い出すと、一人の時でも、吹き出してしまう。

タオルの中で、一つ仲間外れの白いブリーフ…。

大事な大事な思い出である。

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ん?…。
それはそれとして…。
Fは、あの夜、パンツをはかないで寝ていたんだろうか?

それとも試合で履いていた、汗だくになったパンツを…。

(このお題、完)

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2019年08月05日