エッセイ01一覧

米軍の空爆 (妻よ、キミは正気か?)

米軍の空爆

ある日、テレビニュースを見ていた妻が、
「ん~?」
という顔をして画面に見入っていた。

そのニュースは、アメリカ軍(あるいはNATO軍?)が空爆をしているというレポートだった。
時おり起こる痛ましい悲劇をレポートしている内容で、誤爆により一般人や子どもたちが死んだという内容だった。

ニュースが終わった後、妻がいかにも怪訝そうに言った。
「ずっと前から不思議に思ってるんだけど、どうして空爆で建物が壊れたり、人が死んだりするのかしら?」

んん??
私は妻が何を言っているのかわからなかった。

空爆すれば地面には穴があき、建物は崩れ、人々は死ぬだろう。当たり前ではないか。
悲惨な話だが、【そういう目的】で空爆は行われるのだ。

「空爆って、どういう仕組みになってるの?」
と、妻は首を傾げる。
「強力な超音波なの?」
とか言ってる。

いったい…なんのことだろう?

「爆弾を落とせば爆発してああなるだろう。あたりまえじゃないか」
と、私が言うと、妻はさらに怪訝そうに私の顔をまじまじと見て言う。
「爆弾?爆発?それって、音爆弾?」

音爆弾?
私の妻は、何を言っているのだ?

「音爆弾って何だ?」
「だって、空爆でしょ?」
「…?」

    (しばし、二人は沈黙…)

「あ!」
もしかしてだが…。
私は、ひらめいた。

「それは…空砲っていうような意味ってこと?」
「空砲と空爆は違うの?」
「げげっ!」

よくよく聞いてみると、妻はずっと【空爆】を、
「ジェット戦闘機が空から空砲を撃って、その大音響で敵を脅かし不眠症にする、一種平和的な攻撃」
(意味わからん…) だと思っていたのだ。

【空砲の大音響でのイヤガラセ…という平和的な攻撃】にもかかわらず、強烈な音波で建物が破壊され人が殺される…。
「それは、おかしい!」
と妻は常々不審に思っていたのであった。

おかしいのは、きみだ。

ん~、ほんとかよ…。
(本当の話です)

(このお題、完)


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2018年11月01日

姿のない登場人物 [テレビドラマにて] (妻よ、キミは正気か?)

姿のない登場人物(TVドラマ)

ある日のこと。
2時間ドラマ好きの妻が、ポツリと言った。

「2時間ドラマにミステリーって、登場人物の数が限られているから、だいたい途中で犯人の見当はついちゃうんだけど、昨日はなんかヘンテコで…」
「へんてこ?」
と、私。

「最後に犯人は捕まったんだけど、ドラマを通じて何度も名前が出てきているのに、ぜんぜん姿を現さない人物が二人もいたのよ。で、結局、終わりまで一度も登場しないの。びっくりだわ」
「へぇ…」と、私。

イヤな予感はしたが、訊かずにいられない。

「どういうこと?」
「ソウルメイトっていう、ソウルに住んでるらしい主人公の友達が出てこなかったの」
「…?」

ソウル在住?

「それと、ソンゲン氏という人も」
「ソンゲン氏?」
「あ、苗字じゃなく、看護師とか美容師とか救命士みたいなものかも…」

      (二人は、しばし沈黙)

私は妻の、こういう言動には慣れている。
そういうのを真正面から受け取って考えると、二人で森の中を迷うことになる。

「もしかして…、いやきっとそうだが、ソウルメイトってのは【魂の友】って意味合いの、【互いに深い精神的な繋がりを感じる大切な人】ってことじゃないか?」
「親友みたいな?」
「そう。そういう親友みたいな登場人物はいなかった?」

「出てきたけど、その友達は東京に住んでた」
なるほど…。東京在住…のソウルメイト…。

謎は一つ、解けた。

「で、そのドラマ、どういう話だった?」
「なんか重い病気で苦しむ人がいて、もう助からないからとか…」

      (二人は、また、しばし沈黙)

「もしかして、遺言をめぐる尊厳死のからんだようなストーリーじゃない?」
「ソンゲン氏はからんでたけど、その人、最後まで出てこなかった。謎の人」

たぶん、謎の人は、妻よ、あなた自身だ。
ん~、ほんとかよ…。

(このお題、完)

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2018年11月02日

犯人のイニシャル [テレビドラマにて] (間違い探しみたいな…)

犯人のイニシャル(TVドラマ)

ある日の午後こと。

妻と二人でなんということもなく、ちょっと古い2時間ドラマの再放送を観ていた。

私はそんなに2時間ドラマが好きでもないし、見ることもほとんどない。
たまたま昼食後に何もすることがなかったのだ。

ストーリーはわかるようなわからないような、謎のような謎でないような…で、進行し、ついに犯人につながる決定的な物証が出てきたのだった。

それは、イニシャルが刺繍されたハンカチであった。

刑事が言う。
「見てください。ここに ’U・K’ というアルファベットがあります。これは川田悠子(かわたゆうこ)のものです!」

テレビ画面にはそのハンカチのアップが映された。
たしかに刺繍の字で ’U・K’ とある!

そして、バタバタバタと、見事に事件は解決した。

番組が終わってから、妻が私にポツリと言った。

「悠子って、’U’ なの? ’ううこ’ になるじゃない」
「…」

言われてみればたしかに、それはおかしい。
やはり、あれは正しくは ’Y’ だろうな…きっと。

「あの人のハンカチじゃないんじゃない」
「…」

とすれば、あれは冤罪事件だ。
そういう社会派ドラマだったのか?
無意識の?

テレビも、そういうミスをする…。

(このお題、完)

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2018年11月02日

台風一家 (妻よ、キミは正気か?)

台風一家

この話は、書きたくなかった。

理由は、『ウケ狙いで、書いているのだろう』と思われたくないからだし、まさか『ウケ狙い』で、こういう手垢のついた陳腐なネタ話を出してくる愚者と思われたくないからでもある。

だが、これは社会学の例証の一つの記録として書いておかねばなるまい、と思って書くんである。

まさか、実際に近くに【こんな人】がいるとは思わなかったし、こういうことは【ネタ】だと思って数十年、生きてきたのだが…。

結婚して20数年も経っていたある日、妻が天気予報の天気図を見ながら言った。

「今日は台風一家の晴天だって。ここの小さい熱帯低気圧が子どもってこと?それとも奥さん?」

冗談でも質が低すぎるし、使い古されたネタだが、妻は真顔である。

ん~、ちょっと、こわいぞ…。
この手のジョーク?は、すでに干からびた超古臭い古典的芸人ネタとしても通用しないはずだ。

そもそも長くいっしょに暮らしていて、台風も数十個見送ったはずだが、何故今になって…。

いや、彼女は私の横に座っていて、台風の話題があるたびに、いつも【そういうふうに】考えていたということか…頭の中で。
ただ、今までは、たまたま言葉にしなかっただけで。

そうだとしたら、やっぱ、こわいが… これは、受け入れるしかあるまい。
が、漢字を書いて、ちゃんと正さねば。

「一家じゃなく、一過。過ぎ去ったという意味」
「え、そうなの!」

そのときの、驚いている妻の顔を、世界中にYouTubeで公開したかったぞ。
もちろん、録画などしてないけど。

この話は、こうやって書けば、『わざとらしい、ありがちな小噺』と思われる。
でも現実として、あなたの家に、こういうことを言う人はいないでしょう?

うちには、いたんだから…。

(このお題、完)

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2018年11月03日

ご神体を見たい? [1] (どこにでも小さな神社があるでしょ? そういう神社にも御神体があるんです)

ご神体を見たい? (1)

「ここの神社の御神体を見たくないか?」
そう言われたら、あなたも見たいでしょう?

かなり前のことだが、私は町内会の役員になったことがある。
町内のブロックごとに役員を出す義務があったため、自営でヒマそうな私を近所の方々が推薦(強制指名)してくださったのである。
たいした仕事があるわけでもなく、私は2年間、わりと楽しく交通部所属として務めた。

当時の私は町内会ではかなり若手であった。
私はしゃべるのも人の話を聞くのも好きで、その地域の歴史や先輩の町会役員さんたちの人生談義などをいつも積極的に聞いていた。

話というものは、話す相手に勝手にしゃべらせると相手は自分がしゃべりたいことだけを話すから面白みが薄いが、こちらが知りたいと感じたポイントについて積極的に質問してそれに答えてもらうようにすると、こちらの熱意も伝わり、大体どんな話でも面白いものなのである。

そういう聞き上手な面があったためか、私は年配者ばかりの役員会にいい感じで溶け込めていたように思う。

私は交通部に配属されていたから、お祭りのときは神輿の前後を歩いて交通整理をしたり、盆踊り会場の周囲の見回りや自転車置き場の管理などを手伝った。

そういう町内会の【ハレの行事】のときは役員としての仕事をしている時間より、お偉方に酒をすすめられて酔っていることのほうが多かった。
特に所属する交通部の部長さんには気に入られ、いつもいつも飲まされていた。

その部長さんが夏祭りの夜に神社の境内に張ったテントの下で、日本酒を飲みながら酔っ払った赤い顔で、冒頭の言葉を発したのである。

「ここの神社の御神体を見たくないか?」
と。

「え、御神体ですか?」
「そうだ」
「そんなものが見れるんですか?というか見て大丈夫なんですか?」
「ふつうは大丈夫じゃないわけだが、まあいい」

まあ、いい?

「・・・」
「だってなぁ、ここの御神体、俺が作ったんだから」

え?
作った?

「え、部長さんが?」
「うん。オレが作ったんだ」
この部長さんは工務店経営の大工さんなのである。

「実は、俺は宮大工でもある」
「へぇ~そうだったんですか。初めて見ました。宮大工さんを。スゴイですね」
「すごくはないが、すごくなくもない。まあそういうわけで、数年前にここの御神体を作るよう頼まれた」

「え、御神体って頼まれて作るんですか?」
「神道だから、本来は自然物なんかなんだろうが、場合によっては作るものもある。人間、具体的なものが欲しいんだ。前の御神体は腐ったから仕方ない」
「腐った?」
「ああ、手入れがなってなかったらしい。宮司が大雑把な性格の家系なんだろう」

私は古代史とか好きである。
まじめなアカデミックなものも好きだが、超古代史みたいな怪しいものも好きである。
なにはともあれ日本の古代史といえば、神社は外せない。 だからこの手の御神体というものは…すっごく見たい。

ちなみに、神道というものは元々社殿はない。自然の大木や巨石やあるいは神威を感じるエリア等を囲って御神体とする。
だがここの神社の御神体は、この目の前にいる赤ら顔のおじさんが作ったというのだ。

この神社の御神体とはいったい…。

「これはな、こっそりだから誰にも言うなよ。明日10時に神社に来い」
「…わかりました」

私は神妙にうなづいた。

(このお題、つづく)

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2018年11月04日

ご神体を見たい? [2]

ご神体を見たい? (2)

翌日。

私は早朝に起き沐浴潔斎して…と思ったが、前日の祭りの酒が体をぐったりさせており、そういう清く正しい準備はできなかった。

普通よりも遅く起きて歯磨きと洗顔だけはさっとすませ、自転車で神社に向かった。
神社の前では部長さんが昨夜の酔態とは違い、いつもの生真面目な表情で凛と立って私を待っていた。

どうやら酔っぱらった勢いで、できない約束をしたということではなさそうだったので、安堵した。せっかくワクワクしながら来たのだから。

「宮司さんに鍵は借りておいた」
「すごいですね。借りられるんですか」
「御神体を作ったのは俺だし、どうせ俺がときどき手入れするために中に入るから、どうってことない」
「なるほど」

この会話…。
昨日から気になってはいるんだが…、話の対象が犬小屋の餌皿とかならわかるが、相手は神社の御神体なんだけどなぁ…。
罰が当たらねばいいんだけど、ちょっと怖いぞ。

その神社には小さな社殿があるだけで宮司は住んでいない。どこかの大きな神社の配下として管理されているのだろうか。

部長さんは社殿の鍵を開け、私を中に導いた。
薄暗くて厳かである。
奥に御神体の鎮座しているらしい小さな祠があり、扉がかたく閉ざされていた。

「ここだ」
「・・・」
声を出してしゃべるのは不謹慎な気がしてきて、私はうなづくだけにした。

部長さんは祠の前で丁寧なお辞儀をした。私もそれに倣った。
そして部長さんはゆっくりと観音開きの扉を両手でゆっくり開けた。

私は緊張していた。
なにしろ【御神体】なのである。
「これだ」
「・・・」

中には木目の美しい木製の精巧な作りの【和船の模型】がポツンと置かれていた。

江戸博物館とか船舶歴史博物館みたいなところに展示してありそうな代物だった。
全長30センチくらいだったろうか。

「はぁ~、これは船ですね」
私は少しばかり、気持が空振った感じだった。
なにかわからないが、もっと「すごいもの」を期待していたからだ。
(これを読んでる’あなた’もそうでしょう?)

「うむ、和船だ」
「細部まで見事な作りですね」
「俺は腕がいいんだ。せっかくだから拝んでおきなさい」
「はい」

部長さんと私は、その御神体をしっかり拝んで扉を閉じた。

社殿を出てから私は部長さんに訊いた。
「バチが当たりませんかね?」
「ははは大丈夫。俺が作ったんだから」
「…」

なるほどそれはそうだろう…とは思ったが、腑に落ちなくもある。

バチをあてるくらいのパワーもないなら、地域を護り鎮めるパワーもないんじゃないか?
私は地域住民として、また地区役員として、微妙な不安を感じつつ帰路についたのだった。

(このお題、完)

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2018年11月06日

睡眠薬 (私は歴史好き、妻は一切興味なし)

睡眠薬

私が日本の歴史に興味を持ったきっかけは、少年時代に読んだ少女漫画である。

山岸涼子氏の『日出処の天子』(ひいづるところのてんし)というタイトルで、厩戸皇子(うまやどのみこ)が主人公だった。

厩戸皇子というのは聖徳太子と敬称されることになる人なのだが、聖徳太子など実在しないとか、その後の大化の改新等なかったとかが今や定説になっているようでもあるが、それについてはここでは触れない。

『日出処の天子』を読むまで私の日本史知識は、学校教育のレベルであった。
それまで日本史には全く関心そのものがなかったのだ。

しかし『聖徳太子はバイセクシャルで妖艶な超能力者?』みたいに描く山岸氏の世界に惹かれてしまい、私はまず飛鳥時代の歴史書などを買って読み始めた。
奇談や【トンでも本】などの【おもしろ歴史】ではなく、アカデミックな大学教授が書いたような正統的な本である。

もともと私は活字が好きで何かを読み始めると、なんでもかんでも…となる。
最初は正統な歴史書籍ばかり読んでいたが、そのうち【超古代史】とか【古記古伝】といわれるようなものの解読本まで読んだ。

もちろん小説もいろいろ読んだ。
高価で重い日本書紀を自分で買って読んだりもした。(これはすぐ投げた)
古代史から始めて時代を遡り、明治時代まで読んでいった

ただ私は熱しやすく醒めやすいので、あるとき、ふと興味がなくなる。
興味がなくなると、読んだことの大半は忘れてしまう。
でもたくさん読んでいるから、少しだけ覚えていたりする。

大半は忘れても、せっかくたくさん読んだのだから、誰かに話したくなる。
ところが日本史(特に古代史)に関心のある人は、世の中にほぼいない。

私は結婚した後、時々様子を見ながら妻に歴史の話をするようになった。
その手の話をする相手がいないので、しょうがないのである。

それに対する妻の態度は一貫していた。
まったく興味がなく、まったく話を聞かないのである。これっぽっちもだ。
夫に対しあまりに無慈悲で見事な無関心なので、私は逆に感心したほどであった。

さて、 その妻はどこでもいつでも、すぐに寝れるという特技がある。
「不眠症というものが理解できないわ」
という人間なのだ。

が、そんな彼女も年に数回だけ、どうしても寝付けない日があるようだ。
そういうときに、彼女は私に言うのである。
「歴史の話をして!」
と。

「いつの時代?」
「いつでもいい」
そう、彼女はいつの時代でもいいし、どういう内容でもいいのである。

「じゃあ毛利の厳島合戦!」
と私が話し始めると、3分もしないうちに寝息が聞こえるのだ。

妻に言わせると、(妻は飲んだことはないそうだが)、
「どんな睡眠薬より、あなたのの歴史話が不眠時に効くのよ」
ということである。

(このお題、完)

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2018年11月07日

禁煙 への道[1] (ヘビースモーカーの私は、『オオカミ少年』)

禁煙(1)

私は十数年前にタバコをやめてから1本も吸っていないが、それまでまずまずのヘビースモーカーであった。

世間に禁煙機運など無い時代だったので高校時代に吸い始め、20代半ばに仕事がコンピュータゲームの開発になってからは、もう最悪で、作業中はずっとパソコンの前で吸い続けた。
作業部屋の壁も窓も備品も黄色く変色するほどであった。

いわゆるチェーンスモーカーなので、吸いたいから吸うというより、吸いたくもないのだが惰性で次々と煙草に火をつけるのだ。

仕事柄、徹夜が当たり前のような生活であったし、若くて体力もあったので平気で36時間くらいは一睡もせず仕事をしていた。(そのあと爆睡するけど)

長く起きているので次に寝るまでの間に、4箱でも5箱でも吸う。
もちろん依存症であったろうが、ニコチン摂取をしたいうんぬんではなく、ただただマズイ煙草の煙を(苦痛さえ感じつつ)吸い続けていたのである。

ともかく睡眠中以外は、ずっと吸い続けるのだから体調は最悪となる。
とくに寝起きは頭がガンガンするし、吐き気もする。たぶん酸欠で脳細胞も加速度的に死滅していただろうし、毛細血管の血流も低下し、肺にはタールみたいなドロドロが蓄積されていただろう。

そういう喫煙生活を20数年も続けていた。
もちろん、当人的には、
「煙草をやめたい」
のである。

吸っている人であればわかることだが、煙草を吸っていても何も良いことはないからである。

「今おまえは煙草をやめているから、今、偉そうにそういうことを言っているのだ」
と思われるだろうが、そういうことではない。
一日何箱も煙草を吸っているときから私は日々、『煙草に良いとロコは何もない』と感じていたし、周囲にも自分から、そう言っていた。

「なんとか吸うのをやめたい。体調がすっきりしない」
と、毎日毎時毎分、感じていたのである。

そこまで自覚があるなら、やめればいい。簡単なことである。自分もそう望んでいるのだ。
しかし中毒だから、どうしてもやめられない。
(まあ言い訳だが…依存症とはそういうもの)

私は何度も喫煙用具を全部捨て、持っていたタバコを水浸しにしてゴミ箱に投げ入れたりしたが、まったく無意味だった。
数時間すると自動販売機に走っているのだ。
情けないとは思うのだが、そうなるのである。

そして数時間(睡眠を挟めば十数時間)の一時的な禁煙ののち吸った1本は最高に美味いのである。

が、2本目にとなると、もう吸っててマズくなってくる。
軽い吐き気もする。そして自己嫌悪を感じる。
「ついさっきやめようとしてたはずが、また吸ってるじゃないか。オレってなんなのよ…」
である。

3日間だけとか1週間だけとかなら、それまで超短期間の禁煙できることがあったが、それは続かず、どうしてもまた吸い始めてしまう。
健康リスクがどうとか、がんがどうとかいう以前の問題で、日々の隊長そのものがすでになんともいえず悪いのである。

「吸いたいから好きで吸うのだ」
と思っていて、それがある日突然、
「禁煙したい」
と変わったのではなく、私の場合は終始一貫して
「煙草をやめたい。今日も体調が悪い」
と思っているのにやめられないのである。

今考えるに、なにやらそうとうに恐ろしい事態である。

年号が昭和から平成になるとき、私は何度目になるのかわからない禁煙をまたまた決意した。
それまでと異なっていたのは、誰にも要求されていないのに自分で誓約書を作ったことである。
私はA4用紙を机の上に置き、手書きで

今日で禁煙します。 もしこの誓いを破ったならば、いかなる罰を受けてもかまいません。

としたため、日付と氏名も書き加え、実印と母音を押した。大袈裟である。
こういう大袈裟なことをするときは、すでに頭がおかしいのであって、こういうことをする人間を信じてはいけない。

私は妻のところに行き、その誓約書を差し出した。一応、妻充ての誓約書のつもりなのである。
(つまり、妻を監視人とするわけだ。妻にとっては迷惑)

妻は「なんなのよ」という表情で、それを見た。
妻はそれを一読し、
「本気?」
と聞いた。
当然である。
それまで私が何度も「禁煙する」と口頭で宣言してことがあったからである。

妻はもちろん、それまでもずっと私に、
「禁煙しなさい!」
と、ずっと強い口調で警告していた。
だから、私の禁煙は大歓迎である。

しかし、妻にしてみればまったく信じれるものではなかった。
実際それまでの私はことごとくが、
『気が向いたからちょっと言ってみただけ禁煙』
であり、翌日には平然と吸っていたからだ。

が、今回は【誓約書】である。紙である。署名と捺印もある。
そのうえ年号が変わる節目である。

最初の誓約書であったこともあり、妻はとりあえず私の決意を信じたいようだった。

「この、いかなる罰をも…って本気?」
「本気だ」
「へぇ」
「それくらいの覚悟だ」
「わかったわ」
妻はそう言って、その(私が勝手に思いついて書いた)誓約書を引き出しにしまった。

「ふ~ん…、今度は少しは本気みたいね」

(つづく)

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2018年11月07日

禁煙 への道[2]

禁煙(2)

頼まれてもいない『自主的禁煙製薬遺書』を妻に提出したその夜、夜型の私はいつものように深夜に仕事をしていた。深夜は静かで作業が捗る(ような気がするだけ)。

そのときの私は、パソコンの前でゲーム用の絵を描いているか、音楽プログラムを修正しているか、ゲームデータを構成しているかである。

作業に夢中になると、数時間は集中が続く。
集中しているときは、数時間が数分に感じるので、長時間タバコを吸っていないという感じもしないのである。

のちのち完全に禁煙ができた後ではっきり実家できたのだが、集中にニコチンは不要である。集中は脳が集中すればいいのである。ニコチンになんの効果もない。

ところが、その頃はそう思っていない。
集中した意識が、ふと切れる。すると、無意識に煙草を探している。
「あ、いかん。やめたんだった」

人に言われて書いたのではなく、自分自身が勝手に誓約書まで書いて提出している。たった6~7時間前のことである。まともな人間なら、吸えるわけないではないか!
でも、もうダメなのである。そう、私はまともな人間ではないのである。

依存症者は、そういうふうに開き直る。

その夜は悪天で外は豪雨になっていたが、私は寝ている妻が起きないように祈りながら、自販機で煙草を買うために、こっそりと外に出た。
傘をさしていても膝から下がズブ濡れになるほどの雨脚であった。

私は自販機までの5分の道のりを自己嫌悪と闘いながら(闘っているフリをしながら)歩いた。
自己嫌悪と闘っているフリなので、私の煙草を求める気持ちは、ビクともしない。

こんな下劣な人間がいるだろうか?(ここにいるぞ!)
そう、もう吸うのが我慢できないのである。一日も経過していないのに。

それから数日、私はこっそり煙草を吸っていたが、いたたまれなくなり妻に禁煙を破った事実を白状した。
妻は激怒し何日も口をきかなかった。当然であろう。

罰として、様々な家事が言い渡された。私は黙々とそれをこなした。
私はそれから、数年の間に自主的に、3回同じような誓約書を書き、3回とも数日で約束を破った。
計4回の狼少年(おっさん)である。

3枚目の誓約書から、妻は呆れて冷笑するようになった。
「まあ、もらっときましょう」
という感じである。

私はそれでもその後も誓約書を書き、妻は「ふん」と言いつつ受け取った。
実を言うと、私は馬鹿げていると思われるだろうが、そういう儀式の繰り返しが必要だと考えていた。

『誓約書を書いては約束を破るという繰り返しで、そういう自分に嫌気がさせば禁煙できるのでは?』
と私は考えていたのだが、依存症というものはそれほど甘くないし、人間は(いや私は)それほど自律的でもなかった。

書く誓約書が5枚目になると、私自身でさえ、
「もう自分は一生禁煙はできず、一生嘘つきの誓約書を書き続けるのだろう」
とヤケクソになっていた。

それでも書くわけである。
もはや、別の精神の病気?

それにしても、今思い返しても、よく恥ずかしげもなく何枚も誓約書を書いたものである。
どういう神経だったんだろうか。

ある日私は、また誓約書を書いて、妻に手渡した。
妻は冷笑したが、いちおう受取はした。
それまでの誓約書は年号の変わり目とか、新年の日とか、誕生日とか、そういう区切りのときであったが、そのときはなんでもない普通の日であった。

もう一つ、これまでと違っていたのは、禁煙製薬書は書いたが、私は机の上の煙草の箱を水浸しにして処分するということをしなかった。
「どうせまた、買いに行くことになるから捨てないでいいや」
という気持ちだったことを覚えている。

そのときの私の日常に何もそれまでと比べて変化はない。
私の仕事はあいかわらずゲーム開発であり、毎日デスクのパソコンの前に座っている。徹夜をする体力は徐々になくなっていたが、それでも時々徹夜で仕事をして、夜の間だけでも煙草を2箱3箱と吸っていた。

が、その日から十数年経ったが、その後私は1本も煙草を吸っていない。

飲み会などで目の前でスパスパやられても吸わない。
ここがポイントなのだが、煙草の煙がイヤになったとかではなく、
「あ~いい匂いだなぁ」
と思うのである。そして、
「ん~吸いたいなあ」
とも思うのである。
でも、なぜかわからないが吸わないですむのだ。

我慢しているという感じもない。
「1本くらい吸ってもいいだろう」
と気楽に思うのである。でも、吸わないですむ。

不思議なことだ。 禁煙が確立され年月がかなり経過した最近になってやっと私は、煙草の煙がウザイと感じるようになってきた。やっとである。

なぜ、あの日からきれいさっぱり禁煙できたのかは自分ではわからない。

最後になった誓約書を書いてから2週間たったある日、妻と外出しファミレスに入った。
「喫煙席と禁煙席、どちらにされますか?」
と聞かれたとき、私は、
「禁煙席」
と当然のごとく答えた。その2週間、まったく吸っていなかったからである。

妻は、
「いいのよ、芝居しなくて」
と笑った。私がいつものように隠れて煙草を吸っていると思っていたのだ。ただ、
「どうして今回は、いつものようにすぐ白状せず、芝居を続けるのかしら」
と思っていたそうである。

そのとき私は自分のほうから、
「ほんとうにやめたんだよ。あれから2週間、吸ってないんだよ」
と言わなかった。
どうせまた吸い始めると自分でも自分を疑っていたからである。

妻が私の禁煙を信じたのは、それから半年も経ってからであった。

(このお題、完)

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2018年11月08日

尿路結石 [1] (激痛と戦う元気な?結石患者)

尿路結石(1)

私は腰痛持ちである。
今はそうでもないが、以前は腰部のブロック注射もやってみたことがある。

腰痛の話は、別のところにかなり詳しく書いたので、関心があればそちらを読んでいただくとして、なぜ腰痛の話から始めたかというと、私が最初に尿道結石になっとき、私の頭の中にはその病名が一片もなかったため、私は腰痛を発症したと思って、お風呂に入って腰をモミモミしていたからである。

そんなことで治るわけはないし、症状がおさまるわけもない。
それどころか、私は長風呂になってしまい、湯あたりして、余計具合が悪くなった。

無知というのは、恐ろしいものである。

---------------------------------------------

20数年前、夜の11時過ぎ、私は数日前から痛かった右腰(最初は右側の尿路結石だった)をさすりながら、風呂を出た。
あちらの部屋で妻がテレビを観ながら大笑いしているのが聞こた。

「そんなに面白い番組なら、おれも見なきゃ」
そんなことを考えながら、私は右腰を揉んでいた。

数日前から、なんともどんよりした痛みが右の腰部にあり、軽いギックリ腰だろうと考えていた私は、あまり無理な動きをしないようにして、風呂に何回も入っては腰の筋肉を温めるケアをしていたのだ。

私は自営のプログラマーだったので、通勤はなく、外に出かける必要がないなら、一日中家で仕事ができる。腰が多少痛くとも、日常的に困るということもなかった。

ただ、腰の鈍痛は、だんだん強くなっていくようで不安は感じていた。

鈍痛?
そう、嵐の前の静けさ、とはこれである、

妻の笑い声を聞いて、数分後、私は経験したこともない激痛に襲われた。
私は床に倒れ、裸のままでのたうち回り、妻を呼んでいた。

妻は驚いて、すぐ飛んできた。
そして、そこで繰り広げられている異様な光景に絶句した。(らしい)

一人のおっさんが、狩人にモリを撃ち込まれたセイウチのように、わめいて転げまわっているのであった。
(私としては、歯を食いしばって痛みをこらえていたのだが、客観的には見苦しくも、声を出して悶えていたらしい…)

「どうしたの!」
「わからん。わからん。すげぇ、いたい!」
「どこが?」
「腰!腰の右」

最初は 私の滑稽な様子を見て、やや笑っていた妻も、私の形相で事態が容易ならぬと悟り、小パニックになった。

「救急車、呼ぼうか?」
「やだ、深夜だし、なんか恥ずかしい」
と答えた私だが、数分後には、
「救急車~!きゅうきゅうしゃをよべぇ~!」
と、叫んでいた。

(このお題、つづく)

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2018年12月08日

尿路結石 [2] 

尿路結石(2)

しばらくして(私にはなが~い待ち時間だった)救急隊が来た。

「サイレンを鳴らさないでくれと頼んでみろ」
と電話で妻に頼んでもらっていたが、そんな要求は無視される。救急車はかならずサイレンを鳴らす。当たり前のことだ。

家の外でサイレンの音が響いたときはホッとしたが、近所中に
「病人あり!」
と告知したみたいなものでやや恥ずかしいし、夜更けに迷惑をかけるわけだし、とか色々なことを思った。

でも、それは痛みがやや和らいだあとでメイクされた、私の脳内でお【かすかな思い】である。

実際には、痛くて痛くて、そんなことはどうでもいいというくらい、痛たかった。

「はやく何でもいいから処置しろ~!病院に連れていけ~!」
という叫びだけである。

救急隊員は、極めて冷静で、極めて落ち着いていた。
もちろん、そうあるべきだし、そうあらねばならない。
救急隊員が、あたふたしていてはいけない。

それはわかるが、のたうち回っている私とすれば、
「なにを、のんびとしてるんじゃぁ~!」
である。

隊員は記入用紙を手に、私を質問攻めにするのだ。
私はそれに答えながら、
「いいから、はやく痛み止めを打つなり、車を出すなりしろぉ!」
と、心の中で怒鳴っていた。ほんとうに、死ぬほど痛かったから。

本当に怒鳴ると隊員が気分を害し(…人間だからあり得る)、処置の手抜き(…それはしないだろうけど)をしたら困るので、表面上は救急隊員の指示通りおとなしくしていた。

後で落ち着いて考えるに、経験を積んだ救急隊員は、私が尿路結石であることを一瞬で見抜き、激痛の程度はともかくとして我慢するしかないのだし、私の様子ですぐ命にかかわることでもなさそうだと判断できたのだろう。

実際、20数分後に病院に着いたころには、私の激痛は半減していた。ちょっと結石の位置がズレたのだろう。(そのときはまだ自分が結石だと知らなかったが)

救急外来で痛み止めを打ってもらい、そのままお泊りとなった。
翌日病室で起きたら、痛みがまったくなくなっていた。

「尿路結石だと思いますが、検査をしないと確定できません。でも今回は結石が体外に出たと思われます。いちど検査を受けてください。検査はこの病院でもほかの病院でもいいですよ」
「そうですか…結石」

救急車で運ばれた病院は自宅から遠かったので、私は近隣の病院で検査することを医師に約束して、半日の病院滞在(入院ではない)で帰宅した。

だが、 のど元過ぎれば…である。
小さな結石は引っかかっていた尿路から出てしまうと、まさにケロリ!なのである。
私は検査など、する気などなくなっていた。

だって、もうなんともないんだもん!

(このお題、つづく)

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2018年12月08日

尿路結石 [3]

尿路結石(3)

腎臓内に結石ができると、そもそも結石ができる原因があるわけだから、そのときはすでに連続的に結石ができやすい体内状況になっており、その状態がしばらくは続くらしい。

だから、救急搬送されたところの医師が、
「検査を受けるように」
とアドバイスしてくれたのである。

できた結石は、尿路に引っかかって痛みという症状が出る場合もあれば、尿路をすり抜けて小水とともに体外に出てしまうこともある。
だから、症状(痛み)が出なくなったから大丈夫だとはいえない。
そのときすでに次の結石が製造中、あるいは出荷中かもしれないのである。

翌日もまったく痛みがなかった。
検査などサボろうかとイケない考えをしていた罰なのか、二日後深夜、私は再び畳の上で、のたうち回っていた。

前回より夜も更けて、午前2時とかである。
私は朝まで我慢することにした。いくら無料でも、多忙な救急車をそうそう呼べない。それに深夜だから現実問題として、隣近所の迷惑である。
それにやっぱ、なんか恥ずかしいし(恥ずかしがることはないが…)

前回と違い、その症状が『尿路結石』によるものだという知識があったので、そのあと自分でもいろいろ調べていた。

すっごく痛いが、いきなり死んでしまう病気ではない…のだ。
だから、朝まで痛みを我慢できれば、妻に車で病院まで送ってもらえるし、欠席の位置がずれて痛みが和らげば、自分ひとりでで電車で病院に行けるかもしれない。

しかし、しばらく我慢したが、私はほどなく、
「救急車~!」
と叫んでいた。

申し訳ないが、救急車を呼ぶしかないのだ。
妻に車で救急外来のある病院に連れて行ってもらってもいいのだが、当時はネットもなく、どこに行っていいかわからない。
そもそも、もし行ったとしても連絡もせずに行って、そこに適当な医師がいるのか、受け入れてもらえるのかなぢ、わからないのである。
病院側としても、救急隊員が応急措置をして情況を把握したうえで患者を受け入れたいだろう。

そういう理屈がともかく、それどころじゃない激痛でなんである
。数日前より、さらに痛かった。

素直に検査に行っていれば、こんなことには…。これはなにかの罰なのか。

救急車が来て、前回より家に近い総合病院に運ばれた。
数日前にも同様の症状が出ていたので『要検査』であるから、そのまま検査入院となった。

泌尿器なので 内科だと思っていたら、私は外科の病棟に入れられた。
病室には、骨折などで入院している人ばかりだった。

強力な痛み止めを打ってもらい、その夜、私はなんとか眠った。

外科病棟である理由は、翌日すぐわかった。
「スポーツドリンクでも何でも、飲めるものを横に置いておいて、飲めるだけ飲んで、お小水を出せるだけ出してください。そうやって尿路に止まっている結石を流し出さないと痛みはとれませんよ」
看護師さんはそう説明してから私をトイレに連れて行き、大きなビーカーにカーゼを被せたものを私に渡した。

「ここにお小水を出してください。結石が出ればガーゼの上に残るので報告してください。あなたが思うより小さいので見逃さないでください」
と私に指示した。
「小さい?見逃す?こんなに痛いのに?」

そう。私もガーゼに残った結石を見たが、狭い尿路を抜けて出てくる結石は、
「これであんなに痛みが出るのか?」
と思うくらい、ほんとうにと小さい粒なのである。

(このお題、つづく)

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2018年12月08日

尿路結石 [4]

尿路結石(4)

それにしても…。尿路結石とは、へんな病気だ。

体内(腎臓)に石ができ、それが尿路に出て、途中で詰まって痛みを発し、それをオシッコで流し出すのが、とりあえずの治療なのである。

結石の引っかかる場所によって激痛となったときには、(簡単には処置してくれないが)痛み止めを打ってもらい、ベッドで歯を食いしばって耐える。それしかない。

痛み止めは強力なものを使っていたので、(明確に記憶していないが)1時間以上は時間をあけて、連続2回までしか打ってくれない。
あとはどんなに痛くても、我慢である。

私は、痛みには弱くないと自負するが、あまりに痛くてナースコールを押し続けて、醜態レベルの哀願をし、少し早めに3回目の痛み止めを打ってもらったりもした。
それほど、ほんとうに痛いのである。なんというか、気絶しそうなのだ。

外科の4人部屋だったから、お仲間はみんな骨折だった。
ギブスをして不自由そうだったが、折れた直後ではないので、みんな談笑しているレベルである。

「なんなの?」
と私がやや落ち着いたときに、ひとりが訊いた。
「尿路結石です」
「ほう、痛いらしいな。
「すごいっすよ」
「ははははははは」(全員)

病院に運びこまれた翌日の午後になるとやや痛みがおさまったので、私は【水分を大量にとる→トイレに行く】以外のこと、つまり【運動】をすることになった。もちろん医師の指示である。

私は大量の水分を摂取してから、妻に買ってきてもらった縄跳びを持って屋上にあがった。
太陽に照り付けられながら、できる限り長く跳び続け、縄跳びに飽きるとドンドンドンと振動を伴うようなランニングをした。
すべて、振動(と小水の水流)で、尿路に引っかかっている結石を出すためだ。

それにしても、屋上にいる私は、はた目には、『すっごい健康な人』でしかない。

屋上で飛び跳ねて走り回って結石を出すわけだが、欠席の大きさや形状によっては、ストンと簡単に出るわけではなく、尿管内でちょっと移動して、また狭いところか曲がったところで引っかかっる。

そのときの位置が悪いと、またまた突然の激痛になることがある。
そうなると、私はナースコールで痛み止めを要請(強要)する。(でも簡単には打ってくれない)
痛み止めを打って、しばらく癖通に耐えていると、結石の位置が変わったのか、薬の効果なのか、痛みが小さくなったりもする。
すると、ゴクゴクとポカリスェットを飲み干して、手に縄跳びを持ち、私は屋上に向かう。
これを繰り返すのである。

それを見ていた同室の面々は不思議に思うらしく、
「ベッドで痛みに悶えていたと思ったら、縄跳びをしに屋上に行ったりするのは、気の毒だけど、見てておかしいなあ。やっかいなもんだ」
と、私に同情しつつ言っていた。

入院2日目の午後、私はビーカーに張ったカーゼの上に小さな結石を見つけた。
2ミリくらいの、石というより粘土みたいな塊で、なぜこんなものであの激痛が生じるのだろうと不可解であった。
おそらく、もっと大きかった結石が分割されて出てきたのかもしれない。
が、私がガーゼの上で発見できた ”石” は、それだけだった。

「尿道が部分的に細いような人もいます。小さな結石でも詰まると痛いです」
「なるほど」
診察時に医師の説明を聞きながら、私はうなづいた。
結石が出てしまい、すでにケロッとしていた。

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私は検査後に退院し、それから20数年、尿路結石に関しては何事もなく過ごしている。

医師によると、
「結石ができる原因は不明です。食物が関係しているという説もあります。普通の(食)生活をし、適度な運動をしてください。特に予防策はありません」
ということであった。

時々、左右の腰部が痛くなることがある。
私は、一日の大半をキーボードを叩くか、マウスをグルグルして過ごすから、腰痛餅でもある。

だから、その痛みが腰痛なのか、もしかして小さな結石なのか、わからない。
あれ以来、一度も激痛になったことがないから、結石ではなかろうと思っているが、すっと尿路に引っかからないような小さな石を作り続けているのかもしれない。

別だん、健康に良いこともしていないが、気が向いたら30キロのダンベル2個で、筋トレしたりはする。

成長ホルモンがどんどん減衰しているからだろうが、身体の回復力が著しく低下している気がするこの頃は、筋トレしているのか、体を痛めているのか、わからないこともある。

(このお題、完)

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2018年12月08日

久々に尿路結石で救急車に乗る [1]

久々に尿路結石で救急車に乗る(1)

私は『石持ち体質』で、20数年前から尿路結石が持病?で、たまに横腹から背中にかけて鈍痛が出て、
「ん? 石が下りてきてるんじゃないか?」
と、思うときがある。

ところが、私は数年前から腰痛持ちにもなってしまったので、
「これは結石? それとも腰痛?」
と、迷うこともしばしばなんである。困ったものだ。

ちなみに、『石持ち』である私は、胆石も経験し、10数年前に腹腔鏡手術で胆嚢ごと取った。
胆石は、大きさも形も、アーモンド(豆)と、ほぼ同じだった。色だけは、灰色。

私の場合、胆嚢は無くても、ほとんど問題ない。
大食いすると、ちょっと消化不良気味になるけど、それくらい。

自宅でプログラムを作っているから、ずっと座っており、忙しくなっていた先週は、ほぼじっとしているので、どうにも腰周りが重かった。
その重さが、いつものとは違っていた。
つまり、筋肉的な腰痛とは、何か違っていた。

が、10数年、尿路結石は出ていないし、(時になにやら尿路を何とか通り抜けてはいるが、尿路を擦っているような違和感を感じるときは時々あったが、尿路結石としての、あの激痛はなかった)、ずっと座っているから、いつも以上に腰が固まったのかな?…くらいに思っていた。

すると、先週のその日の深夜2時。
「んん?」

私は、20数年前に尿路結石を発症したときから何度か経験しているので、結石が尿路に引っかかると、わかるのである。
いや、正確に言うと、腰痛なのか、結石なのかは、痛みが小さめだとわからない。

結石の痛みは、
「なんでも白状します!」
というような痛みであり、気持ち悪さも加わるので、結石の痛みと腰痛の痛みは、質も痛度も全く違うのである。

だから、
「これは尿路結石の痛みだ」
とわかったときは、もはや地獄なのである。
(たまに、短時間でうまく尿路く抜けてくれて、激痛が一時的なもので済む場合もあるけど)

この痛みがくれば、救急車を呼ぶしかない。
なにせ、立ってられず、床でのたうち回るようになるからだ。
が、救急車は呼びたくない。

午前4時。
2時間ほど、痛みを我慢した私は、それまでの結石体験から、その日の具合(激痛だけでなく、気分まで悪くなってきた)を考慮し、
「やばい。もはや、これまで」
と思い、その日担当の救急外来をネットと電話で探し、早めにタクシーで行くことを考えた。

車は、引っ越ししたときに廃車にしており、今はないのだ。
(ずっとマイカーを持っていたが、数年前に廃車にしてから、東京…郊外でも…では車が無くても問題ないということに気づいた)

東京とはいえ、都心ではないから、朝4時すぎに走っているタクシーは、ほとんどいない。
調べると、24時間対応というタクシー会社があるが、すべて電話に出ないか、出ても、
「まだ社員が出てきていません」
という答え。

「なんで24時間対応って書いてあるんだよぉ~!!」
私は、限界に近付いてきた横腹部の激痛に耐えながら、うなった。

(この話、つづく)

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2019年10月01日

久々に尿路結石で救急車に乗る [2]

久々に尿路結石で救急車に乗る(2)

妻が大好きなものは(まあ誰でもだろうけど…)、食事と睡眠。
妻の睡眠を奪うことは、我が家では極悪非道の行為。

とはいえ、すでに私の結石の痛みも限界、気持ちも悪くなってきた。
自分一人で対処するには、事態が悪化している。
そろそろ妻を起こさねばなるまい…と思っていたら、5時半ころ、妻が起床した。
愛情テレパスか?

私は、この数十年で、何度か尿路結石を体験しており、あえて極論すれば、
『尿路結石は、死ぬほど痛いだけ、それだけのことで必要以上に恐れることはない』
ということがわかっている。

もちろん、そういう楽天を笑うかのように症状が重症化(強大な結石の登場、結石で傷ついた組織の感染症など)しているかもしれないし、そもそも結石以外の不具合かもしれない…という可能性は、いつでも頭の隅で考えてはいるけど…。

妻も他のタクシー会社に電話をかけてくれたが、無駄骨。
わりと大きな道路は近くにあるが、朝5時にはタクシーなど走行していない。

しかたない。限界だ。
もはや痛いとかを通り越して、結石の引っかかっている背中の側面あたりが痺れて来た。
吐きそうだし、立つことさえできなくなってきた。

「救急車を呼んでくれ…」

もう救急車が恥ずかしいとか、ご近所迷惑じゃないかとか、そういう気持ちは吹っ飛んでいた。
痛みは、それどころではなくなっていた。

近くに消防署があるので、救急車はかなり早めに来たと思うのだが、私は激痛をこらえているので長く感じた。
自力(タクシー)で病院に行こうとしていたから、救急ネットで尿路結石に対応してくれる病院は紹介してもらっており、同乗している妻が救急隊員さんに、その病院名を告げた。

私は救急車に乗せられ、うつ伏せで、クネクネと気持ち悪いだろう動きをして、痛みに耐えた。
救急車は、サイレンを鳴らしながら突っ走った(と思われる)

病院に着くまでは10分程度だったと思うのだが、長かった。気を失うかと思うほど、痛みが増幅していた。

病院の緊急搬入口に車が止まり、私は何とか自力で歩いて院内に入った。
担当医が来るまでは、処置室に入れてもらえなかったので、椅子に座って待つのだが、痛くて椅子に座ることができず、救急車の中と同じように、床にうつ伏せになって、またクネクネと痛くない体勢を探した。

床で、もだえ苦しむ姿は異様だが、病院には。まだ誰もいない。
私がのたうち回る病院の床は、ツルツルして、ひんやりしていた。

(この話、つづく)

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2019年10月02日

久々に尿路結石で救急車に乗る [3]

久々に尿路結石で救急車に乗る(3)
じつは救急車の先客がいた。

私が何とか激痛に耐えながら、自力で救急車から降りたとき、そこに1台の救急車がいた。
まだ救急隊員さんが車内の片づけをしており、私の救急車夜少し先…さきほど病院に着いたという感じだった。

私はそのことに気づきはしたが、自分の痛みでそれどころではなかったから、病院の中に入って、床でのたうち回っているときは、それを忘れていた。

しばらくして呼ばれて処置室に入ると、一人の男性がベッドで点滴を受けていた。先ほどの『先客さん』である。
何度も言うが、自分の激痛で周囲のことに注意を向ける余裕はないのだが、それでも彼の様子は『石』であった。

そう、同じ尿路結石である。
ふ~む、奇遇だ。

でも、その時はそれだけである。他人のことは、どうでもいい。
ともかく、まだ痛いのだ。

点滴と座薬の痛み止めを処置してもらい、隣りのベッドの男性といっしょに、(なんとか二人とも自力で歩いて)5Fの病室まで行き、同じ部屋の隣り合わせのベッドで、ふたりは寝かされた。

時刻は、7時ころになっていた。
「9時に診療が始まったら、レントレンとMRIを撮って、それから先生の診断を受けてもらいます。それまでは、ここで休んでいてください。現在の痛み止めで痛みが弱くならないときは看護師を呼んでください」
私たちは、そう言われた。

私は眠っていなかったし、痛みが和らいでもきたので、すぐ眠ってしまい、9時に看護師さんに起こされた。

まずレントゲン撮影に行くと、時間差で救急車で運ばれてきた男性が順番を待っていた。
私は、隣に座った。
二人とも、あの激痛はおさまっていた。

「石(尿路結石)は、初めてですか?」
と、わたしは訊いた。
「ええ」
と、彼は答えた。隣に座っている彼の奥さんが心配そうにしていた。

私の妻は、仕事もあり、5Fの病室で私の痛みが弱くなったのを確認して、さっさと帰宅した。
別に冷血人間とか、夫婦仲に問題があるとかではない。
何度かいっしょに救急車に乗って、私のもがき苦しむ様子を体験しているので、私自身もそうだが、もはや結石の激痛には騙されないし、検査結果が重篤でなければ心配などしないのである。

(この話、つづく)

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2019年10月03日

久々に尿路結石で救急車に乗る [4]

久々に尿路結石で救急車に乗る(4)
私より5分か10分ほど先に、この病院に運ばれ、奇遇にも同じ尿路結石になってしまい、そのため検査を受けようとしているその男性を見て、私は自分が初めて結石で病院の緊急外来に搬送されたときのことを思い出した。

そう、初めては不安である。

点滴と座薬のダブル鎮痛剤で痛みは一応おさまっているものの、数時間前に初めて体験した激痛は恐怖のはずだ。
結石が尿路内に留まっているうちは、いつ激痛が襲ってくるかわからないのだ。

あ、そうじゃないか。

初心者である彼(私より少し年下)は、
『鎮痛剤で一時的に痛みが消えたのか、あるいは石の位置がずれて痛みが出ない場所に移動したのか、すでに結石が膀胱まで落ちたのか…などを区別する知識は、まだない。
検査後に、医師を診断受けて色々説明されるのだ。

だから、彼も彼の奥さんも不安げである。
当然だ。
初めての腰部(あるいは腹部)の激痛に、たまらず救急車を呼んだのだから、いちおう尿路結石でしょうと説明されていても、
「どうなるんだろう。どういう病気なんだろう」
と、不安なのが当然である。
この後、医師に質問し、ネットで色々調べるだろうけど。

そこで私は、検査待ちで隣り合わせで座っているご夫婦に、私の体験談を語った。

「医師が尿路に引っかかってるうちは痛いです。でも出れば、ケロリです。(重篤でなく、炎症も少なければだけど)」
「そうなんですか」
「ええ。私は2度目か3度目に救急車で運ばれて入院したときに、点滴も座薬も全然聞かなくて、注射でモルヒネみたいな鎮痛剤を打ってもらいました。それでも痛みが激しく、ある程度時間を空けて続けてもう一本」

「モルヒネ?」
「よくわからないけど、麻薬成分みたいなものらしいです」
「麻薬…」

「でも効かなくて、ナースコールして、もっと打ってくれ!と頼んだけど、規定が合って、そんなに連続で打てないと断られました」
「はぁ」

「骨折などの人がいる外科病室で、痛みがあるときは枕仁顔をうずめて唸り、痛みが引くと屋上でランニングや縄跳びをしていました。ベッドの横には2リットルのスポーツドリングを置き、飲み続けます」
「…」
「そしたら、そのうち膀胱まで石が落ちるんです」
「…」

「ところが男性の場合は、膀胱から小水とともに外部に排出するときに、あそこに石が引っかかることがあって、これが、微妙に聞い餅悪いんです」
「あそこって?」
「あそこです」

私の話をご夫婦で聞いておられたが、ご主人が呼ばれて診察室に入ったので、私の有意義な?話は中断された。

ん~、あの人、また救急車で運ばれていないだろうねぇ…。

(この話、おわり)

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2019年10月04日

自販機の『あたり』

自販機の『当たり』

 

飲料水の自販機で購入後に、3桁~4桁のデジタルの点滅があって、その数字がそろうと『もう一本』というクジがある。

いつごろから、自販機にああいう『くじ機能』がついたのかは知らないが、30年くらい前にはあった。
なぜなら、私が初めて自販機で『もう一本』当たったのが、そのころだからである。

当時住んでいたところは、田畑だらけの東京の郊外でコンビニなどもなく、夜中にジュース類を買い求めるには自販機しかなかったようなところだった。
その自販機も、ちょっと歩いて行く…ような距離にはなかったんである。

私はフリーでゲーム開発をしており、夜中が活動時間であった。
プログラミングに集中すると、昼間に買い物をするのも忘れてしまい、夜中に飲み物がないことがった。
そういうときは、自転車に乗り、真っ暗な田園地帯の半農道を走り、自販機に向かうのである。

数十年前くらいのことなのに、野犬が群れになって襲ってきたりすることもあった。

田園地帯の真っ暗闇の中に、異様に輝く一台の自販機。
私は、その夜、2本の炭酸飲料を買ったが、その2本目が当たったのだ。

そういうクジはインチキとは思わないが、ほぼインチキに近いほど当たる確率が低いと思い込んでいたので、自販機のデジタル数字が、ピピピピピ…と動いていても、私はそれを見もせず、背を向けて自転車のペダルを漕ぎかけていた。

すると、ピピピピピの後に、軽妙なメロディが流れた。
振り向くと、すべての購入ボタンが点灯していた。

「おおっ・・、当たるんだ」

私は、思わずつぶやいた。
そして、ありがたく、もう一本をいただき帰路についた。

それが人生初の『自販機、もう一本当たり!』体験であった。

それから、どこかで、もう一回、自販機くじに当たった。
その時のことは、あまり覚えていない。2回目だったし、びっくりはしなかったからだろう。
確か車を自販機前に停めて買ったときのことだった、という記憶がある。

3回目に当たったときのことは、よく憶えている。
その後何度が引っ越し、多摩川に近い住宅街の一軒家を作業場兼自宅にしていたころのことである。

やはり夜中に起きて(昼は寝て)、ゲーム開発をしていた。
駅まで近いので、コンビニは近くに何店舗かあったが、飲み物だけなら家のすぐ近くの自販機で十分なことが多い。

その夜、私は上下スエットような格好で、炭酸飲料を求めて近くの自販機に徒歩で向かった。
時刻は、最寄り駅で最終電車が乗客を降ろしたころであった。
ほぼ深夜なのだが、住宅街なので最終電車を降り、家路を急ぐ人が数人歩いていた。
もちろん、どこの誰かは知らない。

私が自販機で缶ジュースを買ったとき、たまたま30歳くらいの男性帰宅途中者がひとり、すぐそばを歩いていた。

その自販機は当たり付きだったが、そこに住んで十数年の間、数百本購入したはずだが当たったこともなく、当たる気もしなかった。
『正真正銘の ”当たるかも詐欺インチキ自販機"(私の思い込み)』のはずであった。

ところが、そのとき、その自販機が…。
ピピピピピピ…ちゃららぁ~ん!(夜中なのに、やや激しい音響と点滅)

見事に、当たったのであった。

私は声には出さず、
「当たるんだ…」と、つぶやいた。」

全灯した購入ボタンを眺めながら、私がどれにしようか悩んでいると、私の背中で、その通りすがりの男性が小声で言った。

「当たるんだ…」

私は思わず振り向いたが、その男性は私のほうを見るでもなく、家路を急いで前を向いて歩き続けていて、その表情は見えなかった。
その様子から、私に言った言葉ではなく自分自身に思わずつぶやいたようだった。

私は彼の背中に向かって反射的に、
「たま~に当たるんですよ」
と、(真夜中の住宅街でもあるし)、かなりの小声で応答していた。

辺りが、シンとしていたから聞こえたのだろう。

男性は振り向かず、ただ小さく右手を上げて、そのまま街灯の向こうの闇に消えていった。

(この話、おわり)

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2019年10月24日