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これは、販売終了した同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』のプロローグを修正加筆したものです。 | |||||||||||||||
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| 【ゲーム黎明期 王国物語風略記】 偉大な漢帝国ならぬ弱小ゲーム開発会社『パックスソフトニカ国(以下ソフトニカ国)』は、国家存亡の危機に瀕していた。 数少ない国民は真面目に働いていたが、宗主国『パックスエレクトロニカ国(以下エレクトロニカ国)』が自国の赤字補填のため、立場の弱いソフトニカ国の金を取り上げていた。 ソフトニカ国の国庫は空となり、新たな領地を得るための戦いさえできなかった。戦うための『武器』がないのである。が、わずかな希望はあった。 この少し前にファミコンゲームへの移植開発を請け負ったことで、ソフトニカ国には戦うための『知識』はあったのだ。もし彼らにその『知識』を生かせる具体的な『武器』さえあれば、この窮地もなんとか凌げるかもしれなかったのである。 彼らは祈った。 「天帝よ。我らに『武器』を与えたまえ!」 そのころ、フリーランス戦士である私は、そんなことはつゆ知らず、『MSXバレーボール(販売名アタック・フォー)』という『武器』を一人で作っていた。私は少年時代からバレーボール愛に満ちた戦士だったから、その『武器』で世界と戦いたかったのである。 そして、その私の夢は叶うことになる。 ただし、そこに…夢が叶ったはずの場所に、『創作者である私はいない』のである。 なぜか? そんな、おかしなことが? 本家の『三国志』などは、策略と裏切りの世界だが、これもそれである。 お金と名誉欲は、人をおかしくさせるとはいえ…なぜ、こんなことが? この『1986年のバレーボールゲーム』には、その「なぜ?」が書かれることになる。 さて、話を戻そう…。 私は、1983年ころ、ソフトニカ国の前身である『イマージュソフト国』に、デビュー作となる『PC-6001ベースボールゲーム』を郵送して採用され、傭兵(フリーランスゲーム開発者)としてのキャリアを始めた。 国名がパックスソフトニカ国となってからも友好関係を保った。 社長であった田村大公が私を戦士として育ててくれた恩人だからである。 私は、ソフトニカ国の厳しい財政窮状を知らなかったが、その長年の友誼により、私が作った『武器』である『MSXバレーボール』をソフトニカ国に持ち込んだのであった。 そして、この『武器』は、すぐさま正式採用され契約が結ばれた。 ![]() 「こ、これは、我が国を救う素晴らしい『武器』になるやもしれぬ。というか…もう他にわが国には金も『武器』はないのだし」 と田村大公は考え、その少し前にファミコン開発術を学んだばかりだった重臣の橋下公爵に相談した。 「これをファミコンに移植しようではないか。国の危機を救うには、もはやこの手しかあるまい」 しかし、橋下公爵は渋った。 「いや、それは少々気が進みませぬ」 彼も少し前まで私と同じフリーランス戦士であったから、自分が学んだファミコン開発術を他人のゲームの移植などではなく、自分のゲーム作りに使いたかったのである。田村大公も、もとはフリーランス戦士なのであるから、その気持ちはよく理解できた。 だが、ソフトニカ国は滅亡寸前なのである。なんとかしなければ…。 田村大公は事態を打開するために、私を呼んだ。 「橋下公爵は、バレーボールのことは何も知らぬし、この競技にもあなたが創ったMSXバレーボールゲームにも、まったく興味がない。 が、プログラミング技術は確かで、わが国では唯一のファミコン術会得者である。国がつぶれる前になんとかせねばならぬ。協力してくれまいか」 ところが…。私は私で、この大公の頼みに、「諾!」とは言わなかったのだ。 私の自作バレーボールゲームへの愛は強く、フリーランス戦士としての立場も誇りもある。 「私は自由な戦士!これは私が精魂込めて開発した『武器』(ゲーム)ですので、私自身でファミコン仕様のものを作り(移植し)たいのです」 田村大公は困り果てた。橋下公爵も私も首を縦に振らないのである。 「こいつら、どんだけ自分中心主義なんだよ」 と、大公は頭を抱えた。 「まあフリーランス戦士は、こうでなきゃ生きていけないわけじゃが…」 ![]() しかし、田村大公は気を取り直し、丹田にぐっと力を込めて、気合とともに熱く私を説諭した。 「本谷殿、ことは急を要するのじゃ。我らには時間がないのだ。あなたが今からファミコン術を学びながら移植していては国が持たぬ。この国が消滅すれば貴殿にとっても都合が悪かろう」 「うっ!なるほど。そう言われてみれば、確かに…」 気迫に押された私は、私をゲーム開発戦士にしてくれた恩人であり尊敬する田村大公の言葉に深く考え込んだ。 そう。このままでは、このソフトニカ国は潰れるだろう。誰にとってもそれは困ることであり、その破滅がそこまで近づいているのである。 そのとき、私の頭上で天帝の声がした。 『皆が自分のことだけを考えていれば、すべてを失うであろう』 と。 おおっ、そうであった! 私は頓悟(とんご)した。 考えてみれば、私の作ったゲームは、(イマージュ国時代から)ソフトニカ国で販売しており、この国がつぶれれば面倒くさいことになる。著作権は全て私にあるとはいえ、あらためて売ってくれるところを探すとなると、たいへんである。 橋下公爵にしても、フリーランス戦士から、意を決してソフトニカ建国に参加したのであり、彼も国が潰れてしまえば浮浪になりかねないのだ。 そのことに気づいた、私と橋下公爵は、田村大公のもとに団結することにしたのである。そう、それしかないのだ。こんなときに、個々の都合を主張してなんになろう。 ![]() 田村大公、橋下公爵、私の三人は、ソフトニカ国を救うため、大杯の酒をすすりながら…ではなくカップコーヒーでも飲みながらだったか…、『桃園の誓い』ならぬ『バレーボールゲーム移植の誓い』を立てたのである。『力を合わせてバレーボールゲームをファミコンに移植し、ソフトニカ国を救おう。そして成功の暁には、富貴は共に!』、と。 我らが目指すは漢帝国の復興に匹敵する難事、ソフトニカ国の滅亡回避であった。そして、滅亡を逃れることができれば、ソフトニカ国は興隆し、原作者の私は自分の王国を持てるかもしれない。 おおおおおっ! やる気が出てきたぞぉ! ![]() YouTube紹介動画(1万回再生超)『ばっけんさん』 そして、ソフトニカ国は、私の原作『MSXバレーボール』をファミコンに移植するプロジェクトを始動した。 原作者でバレーボール術会得者の私がゲーム性の指導と全体監修、現場(プログラム)は橋下公爵、田村大公は各国への遊説(営業)担当である。 とはいえ、ファミコン版への移植完了までには、かなりの時間がかかる。国はそれまで潰れないのか? そして、もっと重大な問題があった。移植版が完成しても、それを自社発売する資力がその時のソフトニカ国にはなかったのだ。お金がないので、ソフトを作ってもハード(カセット)を作れず、商品として売ることができないのだ。 どこかの国と同盟を結んで売ってもらうしかないのであった。そのため、移植作業と並行して同盟国を探さねばならないのだが、貧しいソフトニカ国には人員がおらず各国への遊説さえままならないのであった。 そのため、田村大公は宗主国エレクトロニカ国に、遊説協力を依頼した。ソフトニカ国の金を奪い取っているエレクトロニカ国に頭を下げるのは、なんとも気が進まないがしかたない。 しかし、各国への遊説はことごとく不調に終わった。そもそもファミコン版は移植途中なのである。どんなものができるかわからない。 「できたら見せて」ということだろうが、そんな悠長なことをしていたらその前にソフトニカ国は崩壊するだろう。 もはや、万事休す! そのとき、宗主国エレクトロニカ国に身を寄せていた遊説家・浦山氏が、その話を聞きつけた。 「なぁに、たやすいこと。あなたがたの方策は元の考えが間違っておるのです。手っ取り早く、私があそこに説いてみましょう」 「あそことは?」 「はははははははははははははははははははははは。超大国・任天堂国ですよ」 「に、にんてんどうこくぅっ!?」 「あそこはファミコン連合の盟主。あそこに行くのが最も話が早いでしょう?」 「し、しかし…」 驚く皆をしり目に、浦山氏は移植途中のファミコン版と私の原作ゲーム『MSXバレ-ボール』を携えて、遠い京に旅立ったのであった。 ![]() ![]() はるばる京の任天堂国に乗り込んだこの無名の遊説家は、荷を解き終わるとすぐに、任天堂国に説いた。 「これがMSXのバレーボールです。このようにバレーボールの要素を実現しており、楽しく遊べます。こちちらのファミコン版は移植中で、まだ完全ではありませんが、国を挙げて移植を行っております。ゲーム性はMSX版で確立されておりますゆえ、移植版がMSX版のように動くことはイメージできるでしょう。この世界初のバレーボールゲーム、いかがでございましょうか」 まったく臆することのない遊説(営業トーク)は、超大国任天堂国のハートを射抜いたのであった。 この遊説トークは、私が浦山氏から聞いた話からの想像ではあるが、彼はこんなふうに説いたであろう。 私の手元にある、浦山氏の写った数枚の写真の雰囲気を見ても、彼が超大国任天堂国に単身乗り込んでも臆することはなかったと想像できるのである。 そして先見の明にあふれる任天堂国は、浦山氏の遊説に酔わされたわけではなく、冷静に判断し、私のバレーボールゲームを任天堂ブランドとして発売することを決めたのであった。 天の霹靂! パックスソフトニカ国は救われた! 天帝よ、感謝いたします! ソフトニカ国は、『超武器・任天堂バレーボール』により滅亡を逃れ、その後はその縁により任天堂国の傘下に入り、短期間であったが栄華を誇るまでになるのである。 短期間の? そう、一時的な栄華…。それは後述いたします。 ファミコン版バレーボールゲームが、『ソフトニカ国ブランドで売れたらいいなぁ』くらいの望みだったのに、『超大国任天堂国ブランド』になってしまい、移植版の『任天堂バレーボール』は、世界で400万本くらい売れることになる。 ![]() 任天堂国ブランドでのゲーム販売とその傘下に入ることが、ゲーム開発者として、いかに恵まれていたかを私は経験した。同時に、そのソフトニカ国の中で、お金のからんだ様々な人間模様を見た。 私は、その数年間の出来事をこの国の中で実際に見聞した少数の人間の一人である。それも『部長』として、この国の中心点近くに立ってである。 ソフトニカ国の得た多額のお金はその中枢にいた、一部の人間を酔わせ狂わせた。 私がもらうべきお金は、パックスエレクトロニカ国(なのかパックスソフトニカ国なのか)に入ったが、勝手に流用されてしまったのである。 私が当時直に聞いて知っているお金の使い道の一つが、『六本木のお店』への投資である。 これは私、立本氏に何度も直に聞いた。 私が最近(2025年)Xで知り合った『元パックスソフトニカの元社員』さんがいたころ(2000年代?)にも、 「その店には自由に行っていいぞ」 と言われていたそうである。 ![]() それらのお金の勝手な、ソフトニカ国と関係ないところへの流用をなぁなぁにするために、パックス(ソフトニカ&エレクトロニカ)国は、私から任天堂バレーボールの権利を奪い、私を追放することにしたのであった。 『桃園の誓い(バレーボールゲーム移植の誓い)』で一致団結したはずの3人の勇士は、宗主国エレクトロニカ国からやってきた立本国王兼宰相により分断され翻弄されてしまい、あの美しい『桃園の誓い』は、足蹴にされ地面で踏みつぶされてしまうのである。 その全ての始まりが、私が作った『MSXバレーボールゲーム』だったのである。 そんなこと、みなさん知らないでしょ? なぜなら、パックスソフトニカでそのお金を使った人たちは、そのことを決して表だって話せないからである。 なにしろ、私との間に、正式な契約書もない(くれなかった)のである。 契約書がないのに、なぜ、パックスソフトニカは、任天堂バレーボールに関する権利やお金を独占できるわけなのだろう? 任天堂さんに、パックスソフトニカは、私のことについて、どういう説明をしたのか? そもそも、 なぜ、任天堂バレーボールのゲーム画面に、移植プログラムを担当した人の名前だけがあるのか? ![]() 私の原作ゲームをもとに、私がバレーボールのこと、ゲームの要点や構造を教えたから、移植ができたのにである。 私はこの問題を、今後追求していくつもりである。 『いったい、任天堂さんに私の権利問題を、どう説明しているのか?』 ということである。 移植プログラムを担当した橋下氏は、本も出し、ファミ通でロングインタビューもされている。 そこで、私のことに触れているのは数行である。 ![]() ![]() なぜ、彼は、私のことをちゃんと話せないのか? それが世に知られると都合が悪いからであろう。 実は、『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』を読んだ橋下氏から、私宛のメールをいただいている。 その中で彼は、 「今後は本谷さんのことを(橋下氏自身が)発信し世の中に話します」 と書いてくれていた。 だから、私は、それを期待している。 ただ不思議なのは、私が質問しているわけでもないのに、 「私(橋下氏)は、権利のこともお金のことも何も知りません」 と書いてきたことである。 それは、あるまい。 それとも、当時パックスソフトニカ(エレクトロニカ)の実権を握っていた立本氏が、全て勝手にやったこと、 だということだから、そちら(立本氏)に聞いてくれ、ということだろうか。 38年間、私はパックスソフトニカのことを何も知らなかったが、最近、私が声をあげたことで、直接間接、いろいろな情報をもらっているし、それを公開してよいという許可もいただいている。 それは、私の後にパックスソフトニカに入社したり、パックスソフトニカ、あるいはソフトニカと仕事をした方々から、その後の『こんなことがありました』というものである。 それらを含めて、この物語は、第一当事者である、私しか語ることができないので、私が語らねば闇に葬られてしまであろう。 なぜ、私しか語ることができず、なぜ、私はそれを今まで公に書かなかったのか? その理由も含めて、ここから、任天堂バレーボールゲームの誕生をめぐる本当の物語『1986年のバレーボールゲーム』を、約40年の時を超えて、唯一語ることができる私が書きましょう。 (2025/8/20 加筆および一部の内容修正) | |||||||||||||||
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【注1】 このプロローグは、私の同人誌『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』(販売終了)に少し加筆修正したプロローグです。 その同人誌を読まれていない方に、このプロローグで、これから書かれる『1986年のバレーボールゲーム』の概要をお知らせした次第です。 【注2】 ここにこれから書かれる『1986年のバレーボール』、そしてすでに販売された『バレーボールゲームをめぐる本当の物語』の内容については、何十年も前のことであり、一部に私の記憶違いがあるかもしれません。そのときは、どなたでも、どうかご指摘ください。 私はそのご指摘を公開しますし、一緒に正解を探しましょう。 YouTubeライブ配信など、公開の場での『お話』も大歓迎します。
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1986年のバレーボール<任天堂バレーボールの本当の話>
<1988年>2つの結婚式
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この項は、(A)-③『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』の証明 |
| 私の結婚式に 【 集合してくれたパックスソフトニカの仲間 】 |
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| (1988年11月20日) |
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私はパックスソフトニカ(以下PS)で知り合った女性と結婚した。 私が、PSによる『小切手事件』で騙されて脅されて、PSを去って半年以上もたっていたが、PSに在籍している仲間たちは、飯田橋の教会での私たちの結婚式(手作り披露宴パーティー)に来てくれたのだ。 私を騙して脅していた、T氏とH氏は、もちろん招待しなかった。 私は社員ではなく、フリーランスだったが名目的には部長にもなり、写真の彼らは一緒に仕事をした『仲間(同僚)』である。 彼らが来てくれたことは、私のPSからの離脱の経緯を考えると、ほんとうに嬉しかった。 そのときの写真の一部が、これである。 (※顔部分にボカシを入れてある) (※師匠の田村氏は、披露宴から参加) 教会で式を挙げたのは、(私は信仰はなく信徒でもないが)、私がキリスト教に近い人間だったからである。 『近い』というのは、私は中学生の頃に、外国の人と英語をしゃべりたくて、学校前にあったルーテル教会に出入りするようになり、それで賛美歌を歌ったり、聖書を読むようになり、後に大学ではキリスト教学科で学んだからである。 私はずっとフリーランスだったが、PSで委託販売した『MSXバレーボールゲーム』をファミコンに移植する際の監修指導のため、PSに通うことになり、後に妻となる女性と仲良くなったのだ。 妻は、PSの親会社で秋葉原にあったパックスエレクトロニカ(PE)の社員であったが、PSに転籍した。 つまり、PE、PSの両社のことを知っている人物である。 (当時のことを思い出すとき、彼女の記憶がとても役に立った) 私が知らない見聞も覚えていたり、私が家庭内で彼女と何度も話していたことで、当時の記憶がかなり温存されていたのだ。 私はPSの社員ではなく、完全独立フリーランスであったので、PSと対等で自由な立場だった。 ファミコン移植のバレーボールゲームが思わぬことに任天堂ブランドとなり、スポーツとしてのバレーボール経験者として、またバレーボールゲームの構造確立をした技術者として移植の監修をした。 任天堂ブランドになったのちは、宮本氏と移植版開発の共同ディレクターとなった。 移植完了から発売された後も、PSを救ったバレーボールの原作権利者として任天堂さんといろいろ調整することもあり、何作かのゲーム開発も手伝うため、PSに居残っていた。 私は社員ではなかったが、そういう時間を過ごすことで、私は社員のみんなと懇意になっていたのである。 ![]() 1988年の春頃、PSに完全に裏切られて(『小切手事件』)、騙されて脅されることで嫌気がさし、精神的な打撃で体調も悪くなり、PSを去ったという、私にとって人生最悪の時期であったが、結婚式に多くの仲間が来てくれたことが救いだった。 そのため、この『1986年のバレーボールゲーム』の最初に、このことを書きたかったのである。 良い仲間、優れた技術者が、PSにはいたのだ。 だが、お金に目がくらんだT氏と、最初はT氏に反発していたがT氏に優遇されたH氏は、もともと社内で孤立していたためT氏にくっついてしまい、私との関係悪化だけでなく、他のメンバーとの間にも溝ができていた。 私が部長として、T氏やH氏の二人と、他の仲間をつないでいた部分もあった。 社員ではないが、私は古参なのである。 ちなみに、この結婚式。 私はPSからもらえるはずのお金をもらえなかったため、『任天堂バレーボール』の権利者で原作者で移植ディレクターでありながら…お金持ちになっているはずなのに…お金がなく、一部母親に借金して式を挙げた。 そんな異様な状況だったのである。 よって経費節約のため、披露宴は教会近くのレストランを借り、料理以外は全て手作りであった。 私はこの日、教会での予行練習、レストランとの打ち合わせのため、自分の式なのに、駆けずり回って大汗をかいていた。 写真とビデオ撮影は、高校の同窓Mとその会社の社員さんがやってくれた。 高校時代は、『ディープパープル』のリッチー・ブラックモアよろしく、ギターを鳴らしていたM君である。 披露宴の司会は、私の親友、F君。 この男、のちに、オルケスタ・デ・ラ・ルスのマネージャーとして世界を巡る…。 彼とは、中学時代のバレーボール部が一緒。 そのあとはバンドを組み、高校時代に『ポプコン広島県大会』に2年連続出場した。 ちなみに、最初に出た年のヤマハ世界音楽祭優勝者が、中島みゆきさんである。 個人的な結婚式のことを最初に書いた理由は、もう一つある。 『SPにいたため私の妻も、PSのハラスメント被害者』だったからである。 彼女も、PSによって、とんでもない目に遭うのだが、その話はあとで…。 |
| 【米塚(世永)さんの結婚式に出席した”部長”の私】 |
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| 私はフリーランスだったが、任天堂バレーボールの原作者で移植ディレクターであったので、PSの倒産の危機を救ったことと、任天堂さんと私の交流もあり、PSの部長となっていた。 そのため、会社を代表して同僚の米塚さんの結婚式に招待されたのだった。 私の結婚式より、数年前である。 あちこちで何度も、「私はPSの部長だった」とわざわざ書いているのは、別に自慢したいからではない。 私は、ゲーム界を去った後は、データベースで業務システムを開発していたが、それもフリーランスが基本で、会社というものに社員として勤務した経験がほぼないので、会社の肩書には何の関心もない。 それなのに、しつこく書くのは、 『私がPSで何年も、人間関係を築きながら仕事をしていた』こと、 そのため当然ながら、 『私とH氏は何年間もPSで一緒であり、私が創作したバレーボールゲームの要点をH氏に詳しく教えて移植ができた』 ことを説明(証明)するためである。 ![]() さて、米塚さんの結婚式に話を戻そう。 米塚さんは中島氏と同期のプログラマーで、入社数年であった。 普通ならば、こういう結婚式には、PSの役職者のT氏かH氏が行くべきだが、私が米塚さんにより指名された。 米塚さんは、『ファミコン版オホーツクに消ゆ』や『任天堂アイスホッケー』を、天才プログラマー(と私は思っている)中島氏とともに開発した仲間だからでもあるし、彼女が、T氏、H氏とは疎遠だったということもあろう。 (直に関係ないことなので詳細は書かないが、T氏は根は良い人なのだが、新入社員の結婚式で失言し、その社員は激怒して辞職した、という逸話もあったため、私が指名された面もある) 私は、学生時代に北海道の牧場で泊まり込みで、一ヶ月間アルバイトをし、知床羅臼岳に登り、オホーツク海を見た体験があり(…その経験で?後に『オホーツクに消ゆ』のデジタイズをすることになる)、そのとき北海道に渡るため青函連絡船に乗ったのだが、それ以来の青森県訪問であった。 私の長所でもあり短所でもあるが、私は、『人見知りがなく、物おじがなく、楽天お調子者タイプ』なのである。 写真のような感じで、米塚さんのご親族に、お酒を注がれ、ステージでは下手な歌まで熱唱した。 PS時代の、良き思い出の一つである。 『小切手事件』さえなければ、PSは本当に楽しい会社だったんだけどなぁ。 |
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<1987年1月>ラスベガスのCES視察旅行
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1987年1月 Consumer Electronics Show | |||||
| この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||
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| 任天堂バレーボールの成功を祝し、 ラスベガスのCESを視察 |
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| 1987年1月、アメリカの『Consumer Electronics Show』に行く。 |
| 前年1986年7月21日に、任天堂バレーボールが発売され、パックソフトニカには、お金がバンバン入ってたが、飛行機は格安便だった。ゲーム開発とは無関係なことに、お金が使われていたのだ。(~_~;)…この写真は、”それ”がわかるのだが…。 |
| まだ、私とパックスソフトニカが協力できていたころ。楽しそうでしょ? |
| 埋もれた歴史…。私がこうして書いたり写真を出したりしなければ、私の存在は『なかったこと』にされたままだった…。 う~ん、ひどい話だ。 |
| ※何度かの引っ越しで散逸しましたが、かなりの写真が残ってます。スマホがない時代なので写真が残ってただけ幸運でした。 |
(観光客の方に撮影していただいた)![]() |
| グランドキャニオンにて 左から、橋下氏、私(本谷) W氏(立本氏の知人で、六本木のお店経営) そして、立本氏 と橋下氏は隣合って写真におさまっている 私は彼と仲良くしていたのだが、 彼はなぜ、私を裏切ったのかなあ…。 |
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| バレーボールゲームの創作者、移植ディレクターとして 「オレはビッグになれた!」 と、はしゃぐ、私! このあと、 裏切られとんでもない目に遭うのだが…。 (おそらく、橋下氏撮影) |
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| 左から、私(本谷)、立本氏、W氏(立本氏の知人 (橋下氏撮影) |
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| 左から、W氏(立本氏の知人)と私。 バレーボールゲームの収益で資金援助を受けた方。 仲良くなりましたが、六本木のお店には 行ったことがないまま、小切手事件勃発…。 |
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| 左から、立本氏、橋下氏、W氏(立本氏の知人 <私(本谷)撮影> |
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| 私と立本氏 彼の味方になれば、本当に面倒見の良い人でした。 実は私、立本氏は個人的には好きでした。 でも、お金が絡み、私が正当な自己主張すると…。 |
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| CES会場の外で、私と立本氏(私の陰)と 現地で会った案内の方 私の右腰につけているのは、 特別な『招待バッジ』のようだ |
| グレゴリーさん、ありがとう! |
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| 帰国の飛行機まで数時間しかないのに、私はロサンゼルスのダウンタウンで、一人、迷子!!! |
| グレゴリーさんのタクシーで、なんとかギリギリに、ロス空港に着いた! |
| 無事帰国できた!ので、この後『任天堂アイスホッケー』の開発が始まりました。 私は宮本さんの補ディレクターでした。 (この話は、別項で詳しく) |
| CES会場写真&ネットで見つけた動画(おまけ) |
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| 任天堂さんの展示があったと思うのだが、写真がない…。 写真は、「資料にしたいから」と言われ、誰かに貸した記憶があるのだけど、そもそも任天堂さんの展示がなかった? ん~、それを観に行ったはずなんだけど。 |
| 【検索で見つけた動画】 |
| Jan. 1987 Consumer Electronics Show - part 3 of 5! (ラスベガスの夜の街の様子) |
| Inside the 1987 Consumer Electronics Show - pt. 2 of 4! (会場内の展示・懐かしPANAのVHS!) |
| Jan. 1987 Consumer Electronics Show - part 1 of 5! (ラスベガスの昼間街と懐かしSonyのBeta!) |
| Jan. 7 1987 Consumer Electronics Show + Video of Las Vegas! (ラスベガスの街と、会場のSONY) |
| これら動画を投稿した方は、ゲームに関心がなかったようですが、日付が私たちが訪問した日(1987/1/12)にとても近いので、当時のCESの雰囲気が伝わるかと思いますので、リンクを書いておきます。 ご興味のある方がどうぞ。 |
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<1987年9月>パックスソフトニカ社員旅行
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1987年9月 箱根湯本・社員旅行 | |||||
| この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||
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| 前列から 中島氏(オホーツクに消ゆ、任天堂アイスホッケーで組んだ天才PG) 星野氏、私(本谷)、高橋氏、坪井氏、 浦山氏(任天堂へ営業に行った殊勲者) | |||||
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| 左から 中島氏、坪井氏、私(本谷) |
| 楽しかったねぇ (^o^) |
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| 1987年9月4日~5日、小田急ロマンスカーで、箱根湯本に社員旅行に行く。 |
| 私はフリーランスだったが、パックスソフトニカとは長く懇意で、『部長』の肩書きだったので、参加。 |
| 立本氏、橋下氏は、社内で別グループだったので不参加。田村氏は、所要で不参加。 |
| (※写真は、特に問題はないと思うのだが、いちおう、私以外は顔をぼかしたものを使用した) |
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| 部屋で宴会 左から、米塚氏、坪井氏 私は米塚氏の結婚式に会社代表で行った間柄。 坪井氏とは、のちに結婚しました。 |
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| 左から、高橋氏(グラフィック担当)、米塚氏(PG担当) そして、坪井氏 |
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| 左から、坪井氏、高橋氏、星野氏、中島氏 |
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| 私と星野氏 星野氏は、新戦力のPG 私、酔ってますね。楽しそう。 この後、『任天堂アイスホッケー』発売 ↓ 悪夢の『小切手事件』が待っているとは…。 |
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<1983~1984年>バレーボール以前のゲーム
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1983~84年まで、私が単独で開発してパックスソフトニカから委託発売したゲーム | ||||||||||
| この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | ||||||||||
| 40年ほども前の初期のゲームで、 恥ずかしい部分もあるけれど、 フリーランスとして単独開発し、 パックスソフトニカで委託販売した作品。 これらの経験が、後の バレーボールゲーム開発の基礎となりました。 | ||||||||||
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| 準備は整った! そろそろ念願のバレーボールゲームを創るぞ! | ||||||||||
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| そして、時間をかけて創ったのが 『任天堂バレーボール』の直接の原作となる 『MSXバレーボールゲーム』 【販売名【アタックフォー】) ↓ | ||||||||||
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| 詳しくは、次の項目で |
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<1984~1986年>原作の『MSXバレーボールゲーム』
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1985~86年に、私が単独で開発して任天堂バレーボールの原作になったゲーム | |||||||||||||||||||||
| この項は、 (A)-② 『私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、 任天堂バレーボールの直接の移植元の原作であること。 そして私が、移植指導監修者であること』 の証明 | |||||||||||||||||||||
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| フリーランスのゲーム開発者となり、 4作品をパックスソフトニカで委託発売し、 お金の余裕も多少でき、経験も積んだ。 よし、準備は整った! 念願のバレーボールゲームを創るぞ! | |||||||||||||||||||||
そして、このゲームが 任天堂バレーボールに移植される (私と宮本さんの共同ディレクター) ↓ | |||||||||||||||||||||
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<1985~1986年>原作『MSXバレーボール⇒ファミコン移植の経緯
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親会社パックスエレクトロニカにに収益を奪われていた、パックスソフニカ…。その窮状を救うのは、私が持ち込んだ『MSXバレーボール』のファミコン移植だ! | ||||||||||
| この項は、 (A)-② 『私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』が、 任天堂バレーボールの直接の移植元の原作であること。 そして私が、移植指導監修者であること』 の証明 | ||||||||||
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| MSXバレーボールが ファミコンに移植された経緯の概要 |
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| 私は、完全なフリーランス であり、持ち込んだゲーム作品の権利は、全て私が保有する契約であった。 |
| 私と橋下氏は、遅くとも、1984年頃、新百合ヶ丘時代のパックスソフトニカで知り合っていた。 ⇒ 私の存在をきわめて軽くし、ほぼ無視しているのは、私という権利創作者を隠すためである。 |
| それから、1988年の 『小切手事件』 で裏切られるまで、4~5年間ほど パックスソフトニカで共に仕事をした仲 である。 |
| 【パックスソフトニカとの関係】 私は、1983年のデビュー作『PC-6001ベースボール』から数作品、 開発したゲームをパックスソフトニカで販売委託 した。 |
| 【任天堂バレーボールの原点】 私が単独開発した 『MSXアタックフォー』 を、田村氏 (パックスソフトニカ社長or筆頭役員) ルートでパックスソフトニカに持ち込んだことで、任天堂バレーボールが存在する。 |
| 橋下氏は、パックスソフトニカ内では別ルート(チーム)であり、いつものように、私の持ち込んだゲーム(バレーボール)に関心はなかったし、そもそもバレーボールというスポーツにも、まったく興味がなかった。 |
| 橋下氏もあちこちで述べているように、パックスソフトニカの収益は親会社のパックスエレクトロニカに奪われて、パックスソフトニカは経営危機であった。 |
| 【MSXバレーボールをファミコンに移植した理由】 パックスソフトニカの経営危機を救うため、私の『MSXバレーボール(アタックフォー)』をファミコンに移植して、会社の生き残りに賭けることになり、私もそれまでの友誼から全面協力をした。 |
| そのため、当然バレーボールをゲーム化して、その構造がわかっている私がファミコン移植をするつもりであったが、私はまだファミコン開発の経験がなかった。
私が勉強しながら移植していると、その間にパックスソフトニカが潰れてしまうのでスピード感が必要。 そのためパックスソフトニカを救いたいと、原作者の私が移植を許可し、ファミコン開発経験者の橋下氏に移植プログラムを依頼 した。 |
| 橋下氏は、自分のオリジナルゲームを作りたいため、私の原作のゲームの移植を嫌がったし、 「私(橋下氏)は、バレーボールがわからない」と不安がったが、『私(本谷)が全面指導するから大丈夫』 と、田村氏と私で説得した。 |
| 橋下氏は、バレーボールにも、私がゲーム化した作品構造の知識がなかったため、その後も、 『任天堂バレーボール』が完成するまで、私(本谷)が全面監修指導した。 もちろん、橋下氏のプログラマーとしての技術が、ファミコン版バレ-ボールのゲーム性向上に果たした役割は大きいことを、監修者の私はよく知っており、私のほうは、これまでも感謝を述べてきた。 ただし、彼は創作者ではない。 |
| 【任天堂ブランドとなる】 浦山氏の活躍で任天堂ブランドに決まった後は、当然のことだが、 私が任天堂の宮本氏とともに、ディレクターとなった。 私のほかには、任天堂にもパックスソフトニカにも、バレーボールがわかる者がおらず、バレーボールのゲーム構造の開発は、私の独創 だったからである。 ⇒ 2025年に私は知ったのだが、驚いたことに、 橋下氏が『創作者を詐称』 していた。 |
| 任天堂ブランドになって、橋下氏は、本当のやる気が出てきて、 私も懸命に彼と仲良く協力 した。 |
| 任天堂さん(宮本氏)には、主に演出面などで多大なエンタメ指導とアイデアをいただいた。 そのご縁で、のちに、私は『任天堂アイスホッケー』のディレクター補をすることになる。 |
| 【任天堂バレーボール開発後】 『ファミコン版オホーツクに消ゆ』の開発に、私と橋下氏は加わった。(1986~87 開発当時時の写真あり) |
| 【パックスソフトニカの経営者の交代?】 親会社のパックスエレクトロニカから立本氏がやってきて、田村氏を追い落とし(詳細は私には不明)、社長のように振舞い始め、 お金を勝手に不正流用 し始めた。 |
| 立本氏が私に無断で、任天堂とバレーボールゲームの契約を結んだ と、後で知ることになる。 |
| 1987年1月、任天堂さんの勧め?で、アメリカ(ラスベガス)の『Consumer Electronics Show』に、私、橋下氏、立本氏、立本氏の友人の4人で行く 。(写真あり) |
| 【本谷、功績と任天堂さん向けの顔として部長の肩書をもらう】 会社を代表して、女性社員の結婚式に出席する。(写真あり) |
| 【宮本氏と再タッグ】 1987年。私は 「任天堂アイスホッケー」の開発 に、ディレクター補として参加。『MSXアタックフォー』のキャラクターイメージで、アイスホッケーのキャラクターがデザインされる。 |
| 箱根湯本への社員旅行 へ、みんなと参加。(立本氏、橋下氏、田村氏は不参加。浦山氏は参加)(写真あり) |
| 私と懇意の田村氏(社長)が、なんらかの理由では完全に発言権をなくし、私の立場が崩れ始めることを実感し始める。 |
| 【立本氏は、使い込んだお金をうやむやにするため、橋下氏は困窮していたため結託】 1988年。 『小切手事件』 で、パックスソフトニカに完全に裏切られる。 (連載で詳述) |
| 【任天堂バレーボール大成功の天国から地獄へ】 その後、私は、権利をうやむやにされ、創作者の名誉も失い、「このことを任天堂に訴えれば、おまえらを潰す」と脅されて人間不信になり、ゲーム開発者としての大きな希望が深い絶望となり、パックスソフトニカから離脱する。 その後も、長くトラウマに悩まされることになる。(連載で詳述) |
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<1987~1988年>任天堂アイスホッケー
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1987年開発、1988年1月発売『任天堂アイスホッケー』 | |||||||||||||
| この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | |||||||||||||
| 私の『MSXアタックフォー』の”腰振り”が 任天堂・宮本さんのお気に入りでした。 アイスホッケーの選手キャラ動作の原型です! | |||||||||||||
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[閑話休題1] 二人の社長さんと、一人の部長さん
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<閑話休題1>『二人の社長さんと、一人の部長さん』 | |||||
| 私がお会いした方の思い出です。 | |||||
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<1971年~>私の熱いバレーボール愛
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1971年~バレーボールゲームを創りたい男の歴史 | |||||||||
| この項は、 (A)-① 『原作 <MSXバレーボール(アタックフォー)> の開発の経緯』の解説 | |||||||||
| 中学時代の部活と ミュンヘンオリンピックの金メダル | |||||||||
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<親会社>パックスエレクトロニカの闇
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ブラックな親会社ゲームには無関心、お金のことだけ。子会社は生かさず殺さずのパックスエレクトロニカ | ||||||||||||||||||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | ||||||||||||||||||||
| パックスエレクトロニカ(立本氏) が 子会社・パックスソフトニカ の 収益を奪い続けて、不正に流用しており 橋下氏が困窮していたことが、 『小切手事件』を起こす要因 | ||||||||||||||||||||
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パックスソフトニカ(立本氏支配前)
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子会社として苦労してたけどゲーム開発部隊中心で生き生きとして楽しかった時期のパックスソフトニカ | |||||||||||||||||||||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | |||||||||||||||||||||||
| パックスエレクトロニカ(立本氏) に 収益は奪割れて苦しかったけど、 まだ開発現場に自由さや 和気あいあいさがあった。 | |||||||||||||||||||||||
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パックスソフトニカ(立本氏支配後)
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ゲーム開発より、金!任天堂は、『利用する道具』!社内は分断され、暗黒時代のパックスソフトニカ | |||||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | |||||||
| パックスエレクトロニカ(立本氏) が 子会社・パックスソフトニカ を 支配してしまう。 収益は奪われ、不正に流用され、 、 私と信頼関係があった田村氏が 追い落とされて、会社は変質した。 『小切手事件』を起こす要因 | |||||||
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<1988年>『バレーボールゲーム小切手事件』(現在は一部抜粋のみ)
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嘘と裏切りパックスソフトニカ(パックスエレクトロニカ)の『バレーボールゲーム小切手事件』 | ||||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | ||||||
| 任天堂バレーボールの収益を 勝手に流用して私に払えなくなった パックスソフニカは私の懐柔に失敗し…。 | ||||||
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<1988年>『バレーボールゲーム小切手事件』のあと
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『バレーボールゲーム小切手事件』のあとに続くブラックな出来事とゲーム界への不信と心の不調 | ||||||||||||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』の闇 の解説 | ||||||||||||||
| 「契約書はあるのか?ないだろ」 パックス側が契約書を作らないでおいて、 ふ~む…むちゃくちゃな理屈である。 さて、そのあと、私はどうなる? もちろん、私は悔しくて情けなくて、 体調不良で吐きながらも、対抗策を考えた。 権利も名誉も報酬も奪われたのだから。 | ||||||||||||||
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<ファミコン移植>ファミコン移植版の進化ポイント
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橋下氏の優れた技術と任天堂さんのアイデアでゲーム性がUP! | ||||||||||
| この項は、 (A)-③ 『私とパックスソフトニカの親密な協力関係』 の証明 | ||||||||||
| 私は、橋下氏と仲良く開発をしたので、 ファミコンのスペックによるものや 任天堂さんの演出アイデアだけでなく 橋下氏の技術により、ファミコン移植版が より面白くなったことも知っています。 | ||||||||||
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<2010~11年>封印されたゲーム心の半覚醒は高校IT講師体験
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2010年の10月から、1年間ある公立高校でIT講師をしました。そのとき、私の開発(参加)したゲームの情報がネットにある事を知り、少し覚醒…。 | |||||
| この項は、 ゲーム界を去ったあとのゲームとのかかわり の話 | |||||
| 私は、ゲーム界のことは考えずに生きてました。 思い出すと、気持ちが悪くなるからです。 大好きなバレーボールも見なくなりました。 TVのゲーム関連のコマーシャルも、いやでした 我が家では、それらはタブーになりました。 そうして年月が過ぎていき、 ある高校の講師を、務めました。 バレーボール部に関わることになり、 封印されていたバレーボールへの思い、 ゲーム開発者だったころの記憶が、 少し、目覚めるきっかけでした。 講師生活中、東日本大震災がありました。 そのとき、私は講師室にいました。 本当に、忘れられない1年でした。 | |||||
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パックスソフトニカと六本木のお店
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任天堂バレーボール成功祝しての『1987年のアメリカでのCES視察旅行』まで、話は遡ります。任天堂バレーボールの収益(それ以前の収益も?)六本木のお店につぎ込まれました。 | |||||
| この項は、 (B)-④ 親会社『パックスエレクトロニカ』 の闇 の解説 | |||||
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パックスソフトニカを去って以降のゲーム開発
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1988年の『小切手事件』正しくとも騒げば、大問題になる。任天堂バレーボールは消える。私は、パックスソフトニカを去り師匠の田村氏とチームを組んでゲーム開発を始めた。しかし、心の底では、創作意欲は失なわれていた。 | |||||
| この項は、 その他 | |||||
| <準備中> | |||||
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ゲーム界を去り、データベース業務に移行
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1988年の『小切手事件』の沈殿物。『自分は何のためにゲームを作っているのか?』ゲーム界を去ろう。 | |||||
| この項は、 その他 | |||||
| <準備中> | |||||
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